第66話 お亀の方―1

 三十郎は幸村を見つめ返すように視線を合わせた。

 それでも、なんの反応もない。

「なるほど、暗愚のごとしという噂はこのことであったか」

 と、腹の中で思いつつ、

「今日これより、不肖矢沢三十郎、父頼綱の名代として若を真田郷へお連れまいらせる。あの十蔵なる者は、とりあえず矢沢家の食客としてお預かりし、人となりなどを見定めた後、改めて若に鉄砲指南役として進呈いたす所存。決してみやびやかな進物しんもつではござらぬが……ワッハッハ」

 と、豪快に破顔して見せた。


それから一刻(二時間)後、幸村ら三人は根津家を辞し、真田郷へと向かった。

ここから真田屋敷まで、およそ二里の道程である。乳呑み児の幸村が根津家に預け置かれたのが永禄10年(1567)。わずか二里の隔たりに、12年の歳月が横たわっている。


 幸村は、根津家を立つ前に、養母であるお亀の方に改めて暇乞いをした。

 お亀の方は、常日頃から笑みを絶やすことがない女人であった。彼女の面相は、その名どおり、ただ頬笑むだけで満面の笑みとなったが、この日だけは、いささか趣きが異なっていた。


 頬がこわばり、完全に笑みが消えているのだ。

 いつになく真剣な眼差しであった。


「お母上さま、これまでの長きにわたり……」

 眼前にかしこまり、これまで育ててくれたことに謝意を申し述べようとした幸村の言葉を、お亀の方の言葉がさえぎった。

「そなたの口からそのような言葉は聞きとうない」

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