第61話 矢沢三十郎―2

 お亀の方に導かれた三十郎と浪人者は、御殿の奥へと歩を進めた。お亀の方は丸々と肥え太り、その容姿たるや歩く樽桶たるおけを思わせる。


 片や三十郎は六尺(約180センチ)を超す巨漢である。

 三十郎とお亀の方二人の重みに耐えかね、廊下の床板がギシギシきしむ。そのうしろを貧相な浪人者が遠慮がちにつづく。


 曲者の侵入を防ぐためであろう。くねくねと曲がりくねった廊下は、複雑に入り組み、迷路のようになっている。さすが、甲陽流忍術の正統を受け継ぐ家の念入りな構えであった。


 回廊をさらに進むと、よく手入れされた中庭の明るい景色が目に飛び込んできた。築山つきやまの手前の池泉に、かえでが赤い影を落とし、その周りには苔が青み渡っている。それは一幅の絵のごとくであった。


 奥書院に通された二人の男は、下女の運んできた茶を喫した。

「うむ。これは甘露かんろ。もしや奥ノ山の産なるか」

 茶を味わった三十郎は、思わず感嘆の声を漏らした。


 三十郎の言う「奥ノ山」とは、京都宇治の代表的な茶園のことである。日本で茶の栽培がはじまったのは、鎌倉時代初期にさかのぼるが、それから400年を経たこの当時、宇治は天下一の茶産地として発展していた。


 三十郎は、昨今でこそ流行はやりの茶をたしなむようになったものの、かつては闘茶という賭け事に狂ったこともある。茶の味にはいささかうるさい。


「若にございまする」

 お亀の方のゆるやかな言葉につづき、静かにふすまが開いた。

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