第60話 矢沢三十郎―1

 かくして、先に述べたとおり、矢沢頼綱の一子、三十郎頼康が、幸村を迎える使者となり、根津家の門を叩くことになったのである。

 当初、この任には幸村びいきの頼綱が当たるはずであった。だが、武田勝頼の命により、沼田攻めがはじまり、頼綱は昌幸らとともに上州の陣に赴いていた。

 従って、三十郎の役回りは、名代の名代ということになる。


 根津家門前に駿馬二頭をつないだ三十郎は、根津屋敷の門をくぐった。

 領民らから「御殿」と呼ばれるだけに屋敷の構えは豪壮である。

 玄関口には、根津甚平の妻女お亀の方が、今や遅しと三十郎の来訪を待ち構えていた。


「矢沢三十郎頼康、かねてのお知らせの通り、本日ただいま罷り越しました。諸事、不調法な若輩者ではございますが、なにとぞよしなに……」

 と、深く頭を垂れて辞儀を述べるや、お亀の方が「おやっ」という表情を浮かべた。


 三十郎の背後に、浪人者らしい小兵の男が控えているではないか。

 しかし、名代たる三十郎の供の者を改まって詮議するわけにもいかない。

 

 お亀の方は、その名のとおりの福々しい顔をほころばせ、

「此度はご苦労さまに存じまする。まずはこちらへ」

 と、二人を御殿の奥へと導いた。


 それにしても、この浪人者は汗臭い。眉間や額には刀傷があり、左目は無惨にもつぶれていた。

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