第54話 矢沢の血筋―1

 炎熱の季節が終わった。

 信濃に再びの秋が訪れ、烈しい野分が吹き荒んだ。

 その翌朝、根津家の屋敷前に、青鹿毛あおかげ白葦毛しろあしげの馬二頭が馬首を並べていた。


 いずれも一瞥して駿馬としれる見事な毛並み、馬体であった。

 真田家から幸村を呼び戻すための、迎えの使者が訪れたのだ。


 使者の名は、矢沢頼綱の嫡男、三十郎頼康。大柄な馬体の青鹿毛は三十郎の愛馬であり、白葦毛のほうは幸村の騎乗用に三十郎が引き連れてきたものであった。


 時は天正7年(1579)、幸村が根津家に預け置かれて、すでに12年の歳月が経過していた。


 幸村の父昌幸は、相も変わらず戦さに明け暮れ、この当時は東上野こうずけの沼田攻めに取りかかっていた。根津家の当主甚平もまた武田家麾下の武将として、忍び軍団を率いて沼田の陣に加わっていた。


 合戦相次ぐ光陰矢のごとき歳月であったが、その間、昌幸の妻である山之手殿の心境には、徐々にある変化が兆していた。

 昌幸に薙刀なぎなたを振り上げて追いまわした、かつての激烈な妬情とじょうが、歳月の流れとともに次第に沈静化しはじめたのである。


 よくよく考えてみれば、幸村は妾腹しょうふくとはいえ、真田家の和子なのである。このまま根津家に捨て置いては、真田家において正室たる自分の器量が疑われかねない。

「今のままでは、世の聞こえ、よろしからず」

 一族一門衆に、おのれが妬奸とかんの婦とそしられるのは、避けねばならないと考えはじめたのだ。


 しかも、当時は武将が側室を持つのは、当たり前の時代であった。通常、側室の数は数名程度であるが、織田信長は側室10人余、豊臣秀吉は16人、徳川家康は15人以上というがごとくである。


 かてて加えて真田家一門衆の筆頭である矢沢頼綱は幸村びいきという。頼綱は夫であり、真田家当主の昌幸ですら顔色をうかがうほどの重鎮である。その頼綱の意にいつまでもあらがうことは、この先々、真田家の中でおのが立場をあやうくしかねない。


 この頃、山之手殿は頼綱に関する、ある噂を耳にしていた。

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