第49話 毘沙門天の眷族―2

 佐江は朝早くから矢沢村にある城を脱け出て、垢まみれのわっぱの群れに嬉々として身を投じた。


 彼女のしつけ役である乳母瀧野は、佐江の顔を見るたびにこぼした。

「手習いは山ほどございますのに、今日も野遊びとは、たいがいになされませ」

「こう毎日では、お父上さまに叱られますぞ。わたくしめとて、どのようなおとがめをこうむるか、しれたものではありませぬ」


 もとより、こうした苦言諫言に、耳を貸すような佐江ではなかった。

 沼田城代の父頼綱は、遠く離れた上州の地に赴いており、しかも真田家の宿老として戦さに明け暮れている。佐江に接する日は年に幾日もなく、たまに帰城しても、愛娘の姿に目を細め、溺愛するばかりなのである。


「瀧野、気は確かか。お父上さまが、この佐江を叱るなんて、できようはずもない」

 佐江は瀧野の愚痴じみた諫言を鼻であしらい、残月に跨って城外に奔り出た。飛雪丸がその後につづいて空を舞う。


 行く手の野には、一張羅いっちょうらのボロをまとい、腹をすかせた洟垂はなたれどもが待っているのだ。

 佐江の背に揺れる竹籠の中には、その者らに与える菜飯が入っていた。菜飯は城のくりやで働く下女に握らせたもので、麦に粟や稗などを混ぜ、大根等の野菜を加えて炊き上げたものである。


 戦国時代末期の記録『おあむ物語』によれば、この頃、三百石の知行取りの武士でさえ、日常生活では白いご飯を口にすることはなかったという。武士が米を主食とするのは江戸時代からであり、庶民の間では、少々の米に雑穀を加えた「カテ飯」を明治の半ばまで食していたという記録すらある。


 佐江の菜飯に、赤貧洗うがごとくの下忍の子らはわっと群がり、頬をふくらませてむざぼり喰った。

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