第20話 望月千代女―3

 信玄から頼みがあると言われ、千代女はまずは神妙に応じた。

「お屋形様ご直々のご命令とあらば……なんなりと」


 それを聞き、太鼓腹の信玄坊主は、おのれの油光りする顔をぬらりと撫でた。そして、頬をだらしなくゆるませ、みだりがましい言葉を口にしたのである。

「さすれば、今宵一夜のとぎを所望したいのじゃが、いかがであろう」


 千代女が婉然えんぜんと笑って、切り返した。

「ほほっ、これは異なことを承るものでございます。私めはお屋形様の甥御、亡き盛時様の妻ではございませぬか。しかも、いまだ喪に服している身でございます」


「ふむ」

 と、鼻白んだ信玄に、千代女はとどめを刺した。

「それに、私めの五体には、生来、魑魅魍魎の血を宿しておりますれば、お屋形様の寝首をかぬとも限りませぬぞ」


 そのときであった。

 信玄の傍らに控えていた寵臣、高坂弾正が整った眉をわずかに動かし、太刀の鯉口を静かに切った。


 千代女が再び笑う。

「ほほっ、弾正殿、斬れますかな。うしろをご覧あそばせ」


 ギョッとして、弾正が背後に視線をやると、いつしか一人のくノ一が鎧通しを背中にしているではないか。


 これに、さしもの信玄もあわてた声を出した。

「千代女殿、れ言じゃ。冗談てんごうを申してみたまでじゃ。弾正も控えよ。千代女殿に無礼はならぬ」

「ははっ」


 しばらく座は無音に帰した。

 その静寂を破って、信玄がぽつりと言った。

「さて、そろそろ本題に入ろうかの」

 それは、間諜を重視する信玄ならではの驚くべき構想であった。

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