第6話 夜叉姫―2

 今から3、4年前のこと。


 太郎山の麓で花摘みをしていた佐江姫は、突如として一匹の大きな狼に襲われた。姫のか細い左の手首が、狼にハシッと噛まれ、今にも地面に引きずり倒されようとしたとき、それを見た侍女が「キャーッ」と叫び声を上げた。


 地面に倒されれば、次は急所の喉頸のどくびを狙ってくるであろう。侍女はあわてて狼の尻尾をつかみ、姫から引き離そうとした。


 しかし、それより早く、佐江姫はほとんど反射的に右手の指を狼の眼に突き入れていた。


 狼が尻尾を巻いて走り逃げた後、姫の小さなは血まみれになっていた。しかも、なんと狼の眼球をつかみ取っていたのである。


 そうした逸話を、真田の一族郎党はおろか、領民らに至るまで知らぬ者はない。佐江姫のこの悍馬かんばのごとき気性は、彼女の信濃随一、否、関東一とうたわれる美貌とあいまって、たちまち四隣しりんの噂となった。


 以来、人々は佐江姫を「鬼姫」「夜叉姫」と呼んだ。しかし、それは悪意からではない。この戦国乱世にあっては、鬼や夜叉の異名は、その人の強さをたたえるものにほかならない。


 さて、父の頼綱をたしなめた佐江姫は、さらに言葉をつづけた。

「かりそめにも源次郎さまは、ご本家の若君。ご無礼があってはなりませぬ」

 姫の冴々さえざえとした切れ長の双眸が、頼綱を見据える。


 次の瞬間、驚くべきことが起きた。千軍万馬の猛将として、関東一円に名を馳せる頼綱が、粛然としてこうべを垂れ、一気に酔いが覚めた表情になったのである。

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