第4話 新生児はの西雲の空を眺める 後編
二,
にわか雨が降り出して、トタン屋根を叩きつける冷たく乾いた音が耳の奥に響く。バイトもパスになったのだから早く家に帰ってやったほうがいいだろう。靴底に付いた血が淀に混ざり筆洗いに溶けた赤い絵の具のようだった。この色を最後に見たのはいつだったか。
アパートのドアノブは冷え切っていて雨水で何度か滑った。部屋の中は一段と薄暗く中央で小さな影が揺れている。
天井の梁から、紐が伸びている。葬儀用ネクタイ。辿っていくと眉根を寄せて目をつぶった
表情こそ苦しげだが首元や手元を見るに全く抵抗せずに死んだらしい。
ここに来てようやく僕は朝にステープラーを使ってからずっと押入れの戸を閉め忘れていたと思い出す。あの中には脚立にスーツ一式、麻縄やビニール紐こそ入っていなかったが図らずも首吊りに必要なものはすべて揃っていた。
ちゃぶ台の上には冷めた餃子と行儀よく並んだ橋が乗っていて、皿を持ち上げると滴り落ちた雫から一度は温めたのだと悟って僕はため息を漏らす。
ああ、こいつはあのとき迷ってはいたがこっちのことだったんだな。
「ごめんね、少し目を離した隙にだった」
いつの間にか
「お前たちにとって重要なリソースなんじゃないのか」
「いいや」
それ以上紡がれる言葉はない。銅は首吊りの道具を探す過程で物置の奥に鋸やミキサーが仕舞い込まれているのを見つけただろうか。
柱に打ち捨てられて転がされた首が思い出される、今度は僕があれをやるのか。
白のワゴンと一段とボサボサの赤髪、殴られた頬から口端にかけて下手くそにガーゼが充てがわれており、今日は口元にピンクの棒が無い。
「兎のやつ俺のバイト知っててこういうことしやがるからな、早起きはキツイって」
「僕も同じだが」
はは、薄い唇を開けて乾いた笑い声を上げる。手当のあとが引きつり、抜け落ちた前歯の跡に真新しい真っ白な差し歯が刺さっているのが見えた。
「銅チャン死んじゃったんだって?」
俺まだ顔見てなかったのに、と
「今日の仕事は」
「自然の"別派"だってさ。弱いクセに全くもってメンドー、厄介な連中だ」
そうか、それで兎は止めなかったのかと結論付けようとしたが銅を消した理由をこじつけるにはそれだけでは無理があるだろう。
「確かに、面倒だ」
人間相手は面倒。
トランクを漁る。今回の支給品はデグチャレフPTRD1941、PPSh-41、それに日本刀が1本、戦車を相手にさせたいのか巌流島の戦いでもやらせたいのかまるでわからん。
PTRDのサイトが圧し折られているのを確認して僕はうんざりする。
赤が胸元からかき氷シロップのブルーハワイを思わせる青い液体を取り出すので目頭を抑える。本当は頭を抱えたかったが仕事仲間の前でそのような姿を晒すわけにはいかなかった。
「点眼液の配給も来てるよ」
「それ嫌いなんだよ」
ああ本当に、うんざりだ。
「はい、座ってー、上向いてー」
「無い方が上手く当たる」
点眼の際に赤の埃とフケまみれの毛先が目に入りそうになるのも嫌だった。右目に副現実を映し出す点眼液が落ちる、続いて左目。多く出しすぎた分が鼻の奥に染み出てきてツンとする。
「兎は来てないのか」
「なんか別件だと」
物は言いようだ。
廃ビルに湧いた蟻共を遠くからひとつずつ潰していくというのは全く地味な作業だ。
身を寄せているの高台の雑木林は葉のいたるところに雨水が溜まっていて、真下に伏せていると滴り落ちる大量の水滴でずぶ濡れになる。朝も昼も自分は捨て犬のようだ。
さっきからタングステン弾芯が発射される音と赤の無線越しのやる気のない声が響いていた。
スコープ代わりの
20年くらい前に俳人や歌人の名前を子供に付けるのが流行ったでしょう、昼間の婦警がそんなことを言っていたな。
標準を合わせる。
「左20度、30センチ下ぁ」
発砲、着弾、即死。
「風速3、右60度、120センチ下ぁー」
着弾、即死。
「左40度、50センチ下ぁ…待って、左に5ミリ修正」
即死。
「全弾命中。残りは?」
「表門に二人来る。ライフルは俺が回収するからその辺に転がしとけ、
ペーペーシャと刀持って敷地の反対側に回れ。
本命はそっち。
朽ちた家々の間を縫うように歩いていく。ときにはそれらの廃屋群が行く手を阻み中を通り抜けながら進むしかない。腐った床板を踏み抜きながら、足元の邪魔な雑草や枝を刈りながら。全ての家が室内まで緑に侵食されていた。
表門から数メートル手前、上裸の女がこちらに背を向けて立っている。長い黒髪は雨に濡れて二の腕に留まった片羽の蝶の彫り物に絡みついていた。
「
子供のような女の声。もう一人、背後にいる。
背に隠れて見えなかった小柄な少女の姿が現れる、安物の下着に日本刀を構えた。この状況を知らないものが見れば間抜けな姿だ。スレータスメッセージは名前の部分がぽっかり空いている、それから……僕は内心反吐が出る思いだった、実の姉を供物にするなんて。
ストックに頬付けをしながら思う、こんな古臭いサブマシンガンで相手になるだろうか。
突撃される。
派手に吹き飛ばされて、受け身を取りながら背中が泥道を大きく抉った。だのに、頭は酷く冷静で狡いやつはこれだからなと思う。起き上がるともう一撃やってくる。
受け止める。
最後に通った廃屋まで一気に押し戻された。
金属同士が擦れる耳障りな音、腐った畳に足が沈む。亜麻色の乱れた髪とボコボコと線が浮き出た華奢な腕があの少年を彷彿とさせた。
連射。
大きくドリフトしながら障子を突き抜けて銃弾を避ける。なんて女だ。
破れた障子紙が飛び散る、白レグの羽が舞い散ったようだ。
追撃を続ける。
羽が舞い上がり、邪魔な映像と判断した鏡現(レンズ)がそれらを現実から抜き取ると視界が明瞭になる。僕の足元、ひどく低い姿勢で渦を描く人影。
女は刀を構えたままウインドミルのように地べたをぐるぐる回る、足場を崩そうという気らしい。
連射する。アイアンサイトを覗く余裕なんてない。
起き上がると大きく踏み込まれる、金属同士が反響し合う音。侍の剣の切れ味は凄まじく、映画だったら銃器なんて一刀両断されて僕の身体は上半身ごと吹き飛ばされているんだろう。
押し切る。
壁まで追い込めれば。
銃口を上に向けたまま発砲する。弾丸が鉄筋の壁を抉る音、振動で刃がガチガチ音を立てる。
もう一度、大きく踏み込まれる。
人間の脚力ではない。
ドラムマガジンが弾け飛んだ、次の斬撃を木製のストックで受け止めるが木っ端微塵となる。
「赤!バラライカが駄目になった!」
「そんなに強いぃ?」
太い柱の裏に身を隠す。隠れても臭いで追われる、意味がない。
「生贄を使いやがった、聞いていただろう」
「一石二鳥で良いじゃん」
「
俺日本人だけど使ったことねーわと赤が真面目に答える。お前は仕事もバイトも難易度が低いからそんなことが言えるんだ。
ガキみてぇな女。
もっと派手に動け。
四角い木材の上を伝ってこちらに突進してくる。
跳躍する瞬間、僕は足場の角材を思い切り踏み付ける。敷き詰められたガラクタの一つが支点となり、予想以上に大きく跳び上がった少女は一瞬戸惑った顔をした。
振り下ろされるはずの刀身が小屋梁にめり込む。
僕は相手の心臓めがけて日本刀を投擲した。
彼女は柄から手を離すとストンと体を曲げた体育座りの体勢で黴だらけの畳の上に身体を落とした。両手を口元に持っていきゴボリと血の塊を吐き出す。手で顔を覆うように隠すと数度荒く息を吐き、指の隙間から恨めしげにこちらを見上げた。背中から角でも生えたように刀が突き出ている。
「日本刀はそうやって使うものじゃない」
顔から手を離すと年相応の笑顔を向けられる。
「遺言がそれになるぞ」
例えばお前の姉に、何か言うことは。
「姉さんは優しい人だったから私とは死んだあとに行く場所が違う」
息も絶え絶えという様子だ。
「そうか」
「あなたからは女の人の匂いがするね」
刀の
「二人で決めたこと、悔いはない」
僕は死んだらしい女の身体から刀を引き抜くと彼女の二の腕のタトゥーを切り取った。半分だけの揚羽蝶。姉と肩を合わせれば完成するデザインなのだろう。赤に借りたライターで入れ墨の部分を焼き消す、姉の方にも同じことをしなければならないことが苦痛だった。
銅の遺体を解体しなければならない。
比較的凸凹の少ない道を走っていると思考までも平坦になってくる。
赤の車に揺られながらぼんやりと考える、帰って一番にやることはそれになるだろう。最後にあれをやったのは東京に来て
今住んでいる集合住宅はまだ人が多い、匂いでバレるのは困るから朝一で大量の香辛料を買いに行かなければ。バラしたら肉は煮込んで骨から落とさなければいけない。ここのところ外食ばかりで鍋は使っていなかったしこれからも使う予定はないからあれでいいだろう。
「今日はエンスト起こさないだろ?」
「偶然だな」
それも不気味だったが兎が何も言ってこないことのほうが気色悪かった。急ブレーキがかかり僕の思考は強制的に止めさせられる。
「……もうここで寝たいから歩いて帰ってくんない?」
「僕も寝ていない」
「お前はベッドでいつでも寝れんだろ、俺は違う」
お前は仕事もバイトも難易度が低いからそんなことが言えるんだ。
意趣返しか、赤が露骨に機嫌が悪くなることは珍しかった。こんな奴らの集まりなのだから口も悪くなる。そんなに根に持つことを言っただろうかと思いながらドアハンドルに手をかける。
玄関ドアを開けると軽快な音楽が耳に飛び込んできた。よく聞くとその上に胸焼けしそうな猫撫で声が被さっていて、液晶画面を指で叩く音も聞こえる。
「上手いね、フルコンだ」
「そんなことない…」
無感情な兎の声と今朝死んで、これからバラすはずだった子供の声が聞こえる。
家を出るときに上まで閉めたはずのボディバッグが半分空いていた。未発達の身体が発光するパネルに照らされて青白く浮かんでいる。僕はさっきから頭を行ったり来たりしている嫌な予感に押し潰されそうだった。
「お前」
僕は声を絞り出す、今目の前で起きている事象と兎の考えているであろうことがぶつかり合って混乱する。
「ごめんなさい」
「暗いところで端末を弄るな」
努めて平静を装って答える。蛍光灯の明かりをつけると銅の体からは腕に刻まれた深い自傷跡も全身のケロイドも綺麗さっぱり消えていることがわかった。
「これは4人目ということかな」
兎がやっと口を開く。
「その一人と長いこと行動していて、随分と他人行儀な」
僕と僕の姉と……もう一人。それから追加で銅。"自然"に選ばれた新しい人類の形。
「どうやら銅の場合は不死身の身体を与えられたようだね。我ながら非常にシンプルな」
そこまで言ったところで会話を遮断する。
「銅を唆したのは、お前か?」
ギフトの中身を確かめるために首を括らせたのか、どうなんだ。こいつは直前に物を食べようとしていた。人の傷口を抉るのがお前たちが最も愉悦を感じる行為だろう。
「誘導は認めよう。しかし灰、君は庇護するべき対象を間違えている。庇った相手に後ろから刺されるのには慣れてるよね?」
その少年に付いていた
「銅は賭けに勝ったら灰に伝えたいことがあると言っていた。彼はプレゼントを受け取ることができた、好きなようにさせよう」
それじゃあと言って兎は僕と銅を置いて窓から退出するがいつも通り足音の一つもしない。出て行くと言ってもどこからか動物に見張られているような視線を感じるのはあいつが"目"を付けた野生動物か人間かが見張っているからだろう。
リズムゲームの音が突然途切れた。充電装置を持っていなかったから電源が切れたのだろう。
「……ぼくは、ぼくの頭はおかしいと思う」
そうだな、と僕は答える。まともなやつは姉さんだけだった。
「リスカって死ぬためにするものじゃないんでしょ。気持ちを整理するためとか、気持ちよくなるためとか、生きたいからとかそういうのだってママは言ってた」
「そうか」
「なんで、あの場所に聖母とNBBがあんなにいたのかわかる……」
「それがわからないから困っている」
「あなたが殺したのはぼくの弟たち」
三つ子だった、可愛かった、それしか出てこないくらい思い出がない。本当に一瞬で残酷な死に方だった。
ああ、と僕はため息を漏らす。
だから、お前は初めてあったとき僕を睨みつけていたんだな。
今も。
恨みを買うのには慣れていた。
僕が憎いか。
ꤞ𐑾αꪩ Ꭵ⳽ ꪚαꤞ੫ᧉ -shadow×2- 梦 @murasaki_umagoyashi
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