第3話 新生児はの西雲の空を眺める 前編

一,

 どうやら僕は少年に春巻きを食わしたあと力尽きたらしい、食べ終えた皿を流しに片付けた辺りから記憶が曖昧だった。殴られた頬が畳に擦れ鈍い痛みが走り昨晩の出来事を少しづつ思い出させる。

 僕の体には薄い布団がかけられていて、押し入れの戸が開きっぱなしになっている。彼は本当によくできた子供だ。

「起きた?」

 借りました。

 少年は僕のパーカーを布団代わりにして寝ていたらしい、もぞもぞと顔を上げるとしわを伸ばしてから綺麗に折りたたんで返してくる。

「ああ…」

「縫ってくれる?」

 目の前に差し出された白い腕に刻まれた谷底のように深い縦線。昨日よりも乾燥のせいで色が黒くなり、若干異臭を放ち始めたそれは僕を急速に現実へと引き戻す。

「うん…」

 昨晩の女の事が思い出された。店であれと似たような客に刃物を向けられたことがあったからだ。马大鸣マー・ダーミンは馬鹿で夜の、と言っても昼間から致しているがそういう運動しか得意でないから当然僕は腕を盛大に切りつけられた。障害の残るような致命的な血管や腱を避け、傷跡の残らない切られ方をしても店の仲間たちが気づくことはないし、勘ぐれる頭もあいつらにはない。

 そのときに借りたままになっていたスキンステープラーがあったことを思い出す。お前はずっと持ってろと鈴木から渡されたものだ。押し入れの下の段に転がされていたそれを拾い上げると少年に向けて手招きをした。

 おいで。

「ごめん、これしかなかった」

「ママがされてるとこみた」

「どこで?」

 病院なんてものはこいつが住んでいた地区には廃墟しか存在しない。都心でも真っ当な医者などおらず無免許の闇医者か臓器転売の詐欺師共ならわんさかいる。彼はこれをどこで見たのだろう。少年は答えない。

 僕は腕の傷を容赦なくバチンバチンと針で留める。

「イタ…」

「抜くときのほうが痛いぞ」

「そう……」

 まるで気にならないようだ。

 ガコン。

 手紙が投函される音が聞こえた、トゥからだろう。

 ポストを確認する。分厚い封筒は口が開ききっており中身が覗いていた。宛名も送り先も書かれていないが中には数十枚の紙幣、数えてみるが報酬は減らされていないようだ。他に小さな白い紙が入れられている。子供のコードネームと「ガキはお前の家で育てろ」だそうだ。

 クソが、暫くじゃなかったのかよ。

「お前の名前が決まった」

「ぼくの名前はしょ…」

「今日からお前の名前はトォンだ」

 そんなことを言う顔のでかい、全体的にでかいババアがいたな、青い服を着ていて指に宝石を大量につけた。人から名を奪って短く改名してしまう、あれはなんと言っただろうか。

「トァン?」

「《トォン》》」

 封筒を裏返しちゃぶ台の上に転がされたボールペンを手に取る。大きく「銅」と漢字を書き、その上にカタカナでトォンと記す。文字を反転させて書くのは面倒だった、グニャグニャだ。

「トォン」

「そう」

 銅、銅、僕自身も心の中で反芻する。これは少年の髪の色から取ったのだろうか。

「学校には行ってたのか」

「行ってないけど、バカじゃないよ」

 付け足す。

「でもこの漢字はまだ習ってない」

 銅は小学校高学年で覚える漢字だったか、とにかく今は読みが分かればそれでいい。


 仕事のあった日はどれだけ危険だろうと現場を確認しなければならない。できることならドローンでも飛ばして終わらせたいところだが自分の足で確認する決まりとなっている。これは兎との契約だ。人間社会への監視なのだと。

 人が自然側に絡んでいるとなるとかなり面倒なことになるがどうしようもない。もう決めたことだ。

「ねぇ、ぼく、外に出ちゃだめなんじゃない?」

 目深に被ったぶかぶかのパーカーの更に奥、茶色く揺れる前髪の先からこちらを伺う瞳。

 いいんだよ。一人にしておけないし。

「顔が見えなければ、別にいいんだよ」

 いいわけがなかったが、遊びたい盛りだろうからこのままずっと家の中では苦痛だろう、銅に限ってはそんなことはなさそうだが。昼間は基本兎の観察下に置かれることとなるだろうしこうやって時間があるときに連れ出してやるしかない。

 いつもの路地を曲がり店の暖簾をくぐる。

「臭い」

「慣れな」

 カウンターで飲み物だけを注文する。銅になにか食べたいものはないかと訪ねたが僕と同じでいいと言われた。向かい合わせのテーブルに座り、クリームソーダが運ばれてくるのを待つ。

「お兄さんのことはなんて呼んだらいいの」

马大鸣マー・ダーミン

「…中国の人?」

「そう」

 兎から与えられたのはそういう設定。本当は中国人でもアジア系ですらないが。

「ここの店は飲み物がみんな美味いんだ」

「普通は食べ物が美味しいって言うと思うよ」

 そろそろ届くだろうと思っているとどうぞと置かれたそれに目を疑う。

「これ…本当にクリームソーダ…」

 はじめに声を上げたのは銅の方だった。

「のはずなんだが…」

 コーンの付いたソフトクリームが緑色の炭酸水に逆さに突き刺さっている、見るに堪えないクリームソーダが出てきた。なんだこれは、おかしいだろ。前回来たときはノーマルなものでこんな珍妙な代物ではなかったはずだが、おまけにストローの一つもささっていない。

「どうやって食べるのか教えて」

「僕もわからないんだが」


 昨日僕たちが暴れまくった区画は黄色いテープが引かれ、片手で数えられる程度の警察車両が止まっていた。今回は運が悪かったということだろう、警察もほとんどが新都に逃げてしまっているはずだし残った奴らも郊外にしか拠点を置けていない。こうやって規制線が張られているのは極稀なことだ。

 他の車両を避けるように目立つ流線型の車が止まっている、僕はそれもここの連中の仲間だと気づくが気にせず歩み寄った。

 自動運転搭載型の最新車だ、一般的なものよりもルーフが特殊なうねり方をしていて遠目で見てもひと目でわかる。こういう車種は例えば目的地をセットすればハンドルから完全に手を離して何をしていても指定の時間についてしまう、東京の壊滅と引き換えに僕たちはそういう技術を手に入れた。

 車窓が開いている。

 女が座っていた。ウェーブのかかった茶髪を肩につかない高さで二つに結んでいる。黒のチャイナカラーの長袖に同色の極端に短いタイトスカート、警官のようだがこの辺のやつらとは制服が異なっていた。後ろ見の下、ちょうど首の後ろあたりに立て襟のせいでうまく見えないが頸椎を模したような模様が見える。脊椎刺青スパインタトゥーだろうか。日本では特に公務員であってもある程度のこういう自由が許されていた。なんにしろ全世界が荒れ地と化しているわけで。

「こういうの、ここではよくあるんですか」

 こちらを向くと野良猫のような懐かない目をしていることがわかった、細める。特徴的な鈴を小さく揺らしたような声で問われた。

「そうみたいですよ。僕は郊外に住んでいるのであまりわかりませんが」

 いかにも部外者然として応答する。昨日までここで暴れていたのはあなたの目の前にいるこの僕だというのに。

 下がってくださる?

 運転席のドアが開き、様々な銘柄が混ざりあった煙の残滓が外界に漏れ出る。助手席にガラス製の灰皿とその中にいくつもの使い終わったシャグが大量の缶ビールの群れに埋もれていた。

 婦警は短い制服から伸びる痩せた太腿に刻まれたレッグカットを隠そうともしない。寧ろ見せつけるように身体も顔も近づけてくる、傷んだ前髪が片目を覆っている。よく見ると猫のような特徴的な口紅の塗り方をしていることがわかった。タバコ臭い。

「不健康が好きなんですか」

「ええ、とても」

 続ける。

「新しくできた街の奴らは健康を押し付けます、口には出さないけれどそういう圧力はある。だから、思いっきりハメを外したいならここまで来ないと」

「お名前は」

「あら、失礼しました」

 女性は後部座席に放り投げてあったコートのポケットを弄ると名刺を取り出し指先で弄る。今どきに紙の名刺か、古い時代が好きなのか。

「自分の名前、嫌いなんです」

 彼女は名刺からパッと手を離すと僕の手のひらを取ってひらがなで「し」「き」と指を滑らせた。

 変でしょ?

 チェシャ猫のようにしきは笑う。


 今日は夕方からバイトが入っていて銅の夕飯は料理店でテイクアウトした餃子に決まった。麻婆豆腐と迷っていたからあいつは辛いものが好きなのかもしれない。

 店の戸を開けるとロビーの白い柱が人の血で赤く染まっている。明け方あたりについたのだろう、時間が経って茶色く変色していた。根元には髪の長い頭が転がっていて、足で転がしてみると夜更けに現れたあの女であることに気づく。

 割れた窓から風が吹き込んでくる、店内で気怠げに渦巻いていた鉄の香りが僕に向かってきた。

 桃色の光を振り撒く球体も今は回っておらず、一段と赤くなったカーペットの上で真っ二つに割れている。ここの店にこれの替えを買う金はあっただろうか。

 古臭いCDプレーヤーから流れるどこの国のものともわからない賑やかで刺激的な音楽だけが昨日までの店内と変わらないものだったが、それも中のレコード盤が壊れたのだろうところどころ音飛びやノイズが混じっている。

 僕はポケットから朝の白いメモ用紙を取り出す、封筒には銅の名前と兎からの伝言が書かれた2枚が入っていた。書かれていたのは「暗闇、紐、室内」。

 空気は溜息を出すために息を吸うのも躊躇われるほどむせ返るような湿気を含んでいた。

 僕は3つの単語を脳内で繰り返す。大きく首を振ってついでに店の奥まで見渡してみるがワイヤーなどの紐が使われた痕跡はなかった、首の断面を観察するが刃物で切られた傷だ。ロープも見当たらない。その代わりとでもいうようにベッドルームから死体が履いていたピンヒールがひらりと揺らめいてゾッとする。

「随分ひどくやられたみたいだね、お兄ちゃん」

 鈴木は僕の顔を覗きこむとニヤニヤとピンク色に塗られた唇を歪めた。黄ばんでところどころ欠けた歯、瞳の焦点が合っておらずなにか変なもの…ここでは常識の範囲内だがとにかく何か入れたあとなのだろう。

 いい靴だよ、これ。

「そこの頭に殴られちゃいまして」

「お前んち鏡あんのか?」

 こういうとき鈴木はいつものように「马」と名字で呼ばない。そしてとても性悪になる、薬のせいでもともとの性格が引き出されているのかもしれなかった。店で自分の本当の顔を表すものはいない、そういうところは戦場と似ていると僕は思う。

「無いですね」

「じゃあわからないわけだ」 

 その顔で?とでも言うように、首を傾げる。

 いてぇからわかるよバカが。

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