第2話 捨てられた赤子は流れた 後篇

二,

 任務の詳細はこうだ。

 都心のH2区画にいる目標の保護。目標は9から10歳の男児、身長125センチ前後、小さいな。母子家庭。ついでのように周囲の聖母マリアを数体片付けておけとのことだった。さらに今回は武器の配給の量が桁違いらしい。茶封筒に調理用ナイフ一本だけがポストに届けられていたときすらあったというのに。

 こんな任務は初めてだった。内容は目標の特徴ばかりだし子供を攫うだなんて、今までこなしてきた危険なあれそれはなんだったのか。馬鹿げている、内容も釈然としない。ただの子供を何に使う気だ。いや、男が聖母を率いるなんてあり得ないわけなのだから兎たちにとってなにか特別な人材なのかもしれないが、深読みしすぎだろう。言伝通り囲まれているだけか。

「待たせたなぁー」

 赤の車が見える。ボロボロの、白色だったワゴン車、半世紀前の代物らしくしょっちゅうエンストを起こす。そのオンボロ車の窓から赤が顔を出している、バイトで殴られたのか頬は腫れ唇の端に血が滲んでいた。いつものようにツルがよれよれの安物のサングラスをかけ、傷んだ茜色の髪が湿気を吸って膨らんで風に嬲られていた。カサついた指先で紫煙を燻らせると短くなった今しがたまで吸っていたものを窓から投げ落としたので僕はそれをスニーカーの靴底で捻り潰した。

 ずいっと顔の前に汚い赤髪が揺れる、口元には新しいピンクローズの紙タバコが咥えられていた。片手で覆いを作っている。もう片方には蛍光イエローの安物ライター、そういえばあれが見当たらない。首から下げていたジッポはどうしたと聞くと盗られたよと返ってくる。

「壁作ってるから、付けてくれぇー」

 ライターが眼前に差し出される、オイルが少なかった。コンビニで新しいのを買え。

「煙いのはウンザリなんだけど」

「あっそ」

 郊外はジメジメしてるから美味いのが吸えねーんだよ、と愚痴る。

「車内で吸え」

「臭くなるからやだもーん」

 僕の周りには兎のようなヤツしかいない、理不尽で皮肉屋、それは僕もか。付け加えるとすれば赤は马大鸣もびっくりのとびきりの馬鹿だ。

 仕方ない、付けてやろう。強風に何度も回転式ヤスリを回すことになった。やっと火がつくと甘ったるい煙が湧き上がり目に染みる。

 案の定、嫌な気分になった。

「トランクに積んである。いつものやつと、追加で色々」

 赤が口を開く、前歯が一本足りなかった。


 シャツのボタンを外し終えると畳まずに荷台に突っ込み変わりにグレーのハイネックを取り出し着込む。違う国にいたときから市街戦ではこの色と決まっていた。ハーネスを付けホルスターに拳銃を突っ込む、前に弾の数と撃鉄の確認をする。PMか、セイフティーレバーを押し上げて安全装置をかけるとハンマーが落ちてくる。

 背中に2本、小振り。腰に3本、大振り。すべてククリナイフ。両腿に1本ずつ、ダガー。ナイフの数を数える、計7本。聖母が出るとしても子供一人に対して弾薬の数もナイフの本数も多すぎる。

「赤、どういうことだ」

 目を向けずに問う。

NBBニューボーンベビーが3体出る可能性がある」

 ああ…

 それじゃあ少なすぎるな。追加でAK-47とRPG-7に弾は持てるだけ欲しい。

「ロケラン持ってるか?」

 薄ら笑い、これは本音だ。

「お前も冗談を言うんだな」

 はははと赤が笑う。不規則になった呼吸のせいで煙を喉に詰まらせ盛大に咽る。

 げほっ。

「ガキの保護が任務だ。水子の方は無視しても構わん」

「そういうわけにもいかないんでね」

 灰色の手袋をはめる。

 中途半端な任務で報酬を減らされるのはごめんだ。特にターゲットが子供なら尚更。

 すべて自分のためだった。


「案内は任せてよ」

「黙ってろ」

 案内役はいつも兎だ、こいつの下で働いているようなものだから当然だが。

 兎は危険地帯には来ない。ほっとくと寂しさで死ぬのではなかったか、ウサギは。なんにせよこの生き物にそういう類の話は相応しくない。

「相変わらず、どこもかしこも精液臭い身体だ」 

 鼻を鳴らす音、わざと聞かせてきている。

 この調子だ。食えないやつめ。

 前方に痩せこけてボロ布を纏った女たちの影が見えてくる。さらに背後に1体…いや、2体だ。聖母は足音を響かせない。PMのスライドを右手で引いて前進させる。背後に回そうとすると銃身が下顎体の谷間に沈んだ。

 発砲。薬莢が転がる。どさりと土嚢でも落としたような重い音が肩に伸し掛かる。

 正面に30数体、後ろにもう1体。

 聖母と売女のクロス・クォーター・バトルが始まる。

 左手でグリップを強く握り背中のナイフを引き抜くと束にして持ち治す。俗説に「一度抜いたククリは血を吸わせてからでないと納めてはいけない」というものがある。聖母もNBBも血を流さない、一生納められないじゃないか。

「聖母の数が多い」

「そう言われただろ」

 多すぎるっつってんだよ。

 逆手に持った抜き身のそれを振り向かずに素早く背後の2体目の眼孔に突き入れる、無理矢理骨をこじ開けゴツンと蝶形骨に引っかかる音がした。

 外れないな。

 柄から手を放す、右手で背中から二振りめを引き抜く。

 3体目が正面から飛び込んでくる、カエルの跳躍を思わせた。

 後ろの聖母の肩を掴んで盾にすると激突した衝撃で後頭部から今しがた刺し込んだナイフが飛び出した。頬を刃先が滑る。血が流れた、自分の血だがこれで許されるか。前の干からびた肢体はやはり何も流さない。カランという乾いた落下音と同時に死体越しに右側から刃物を突き入れ串刺しにする。骨と皮ばかりの唇から甘ったるい吐息が漏れ耳に吹き込まれた。2体分の重みが左手にかかる。

 腕がイカれる前に引き抜くとそのまま奥の4体目に向かって投擲する。命中、即死。足元の血の付いた方の刃を拾うと5体目に投げる。

 即死。

 目の前に突っ立ってんな、邪魔だ。

 1発、2発。

 前を阻んでいた2体が崩折れる音。木片の燃えカスのような灰になって消える。

「楽勝じゃん」

 兎の声が脳内に響く。抑揚はない。

「灰、たのしそう」

 同じく、抑揚のない声が脳髄に響く。

 口腔から湿った息が漏れ、同じく湿った外気と溶け合う。僕は一歩また一歩と歩を進め気づいたら走り出していた。

 投擲したナイフを回収していく。抜いて投げて、刺さる。抜く、投げる、刺さる、抜く、投げる、刺さる。続ける。

 抜く。

 一撃死だ。残り6体、右手で握った柄に力を込める。

 背中でX字に止められた鞘に片方の刃を納める。

 20体目を殺したあたりから左手のビル群が崩れる音が聞こえていた。僕は聖母の頭を踏み台にして大きく飛び上がる、首が骨折する感触が足に伝わる。

 PMを構え直すと現れたNBBの眉間に向けて全弾発射した。スライドが後退し、赤ん坊の泣き叫ぶ声が聞こえる。発情期の猫の上げる悲鳴のような嬌声に聞こえなくもない。

 直後に大きな手をバタつかせながら正面のアパートを突き破って巨大な赤ん坊が姿を表す。さらについさっき殺した死体を踏みつけてもう1体が現れる。

「SNAFU…」

 滅茶苦茶だ。NBBは基本1人に付き1体しか現れないはずだった。後ろに飛び退ると両者はぶつかり合って不定形に歪む。

 マカロフを地面に転がす、用済みだ。こんな状況になると分かっていて片手で弾倉を外せない銃を寄越すなんてどうかしている。このまま僕を殺そうとでも言うのか。

 瓦礫を背に覚悟を決める。

 正面からだ、正面から、やるぞ。

「それがいいと思うよ」

 いいわけあるか、少しは手伝いやがれ。

「今の言動を上に報告して報酬を半減させてやってもいい」

「まだ口に出してないけれども」

 ナイフを投げる

 左手でホルスターからもう一丁の拳銃を引き抜く。PM……これが散弾銃であったらどれほどマシだったか。

 眉間に3発発砲する、ガン、ガン、ガン、と。最初に投げたククリの持ち手に押し込むように着弾させる、柄の半分まで肉に埋まって見えなくなる。効果なし。

 さらに5発撃ち込む、最後に駄目押しの1発。

 効果なし。

 辺りは夕時を過ぎほの暗くなり始めた。正面の水子は力を増したように暴れまわり泣き喚く。

「夜生まれですか、君ぃ……」

 こうしてまじまじと見ていると生まれた時間に力を増すというのは本当らしい。

「明け方であってほしかったな」

 ぶよぶよとした未成熟な腕が伸びてくるのを躱す、背後の瓦礫が木っ端微塵に吹き飛ぶ。破片が頭上を掠めていった。

 とにかくナイフを投げまくる。考えは要らなかった、もうどちらか一体でも倒せればそれでいい。腿からダガーを引き抜く、スロー、スロー。可愛らしい真っ黒な大きな目玉を抉る、もう跡形もない。腰のククリもすべて投げる、柔い肉を引き裂く音が響く。

 夜生まれは全本刺し尽くすとやっと動きが止まった。事切れてくれたようだが、こちらも弾切れだ。

 左で揺れていた巨影が雪崩れるようにのしかかってくる。

「お前は明け方に生まれたの」

 精巧なフランス人形のような瞳がこちらを覗く。

「人形は笑わないか」

 おもちゃを見つけた赤ん坊のような笑顔だ。

 おい兎、今回の任務だが飲食店も魚の臭いも男も関係なかったぞ。

「どうだろうね」

 クソ、笑いやがって。

 最期になるだろうから嫌味の一つでも言ってやる。

 ドォンと空気を劈くような音が左耳に轟く。直後に硝煙の匂い、腹の古傷がうずく。

 赤が数歩後ろに狙撃銃を構えて立っていた。唇の端に咥えたブラックデビルから紫煙が上がっている。僕は心底嫌な顔をしていただろう。

「スナイパーは後方で芋ってろよ……」

「セーフだったろ?」

「……」

 ハートでも飛んできそうなウインクをされる、僕はそれに当たらないようにやんわりと避ける。

「俺がサポートできんのはここまでだ」

 これ、言ってみたかったんだよねーと軽口を叩く。

 頬の傷に煙がしみた。


 コンクリートのひび割れに小さな松葉牡丹が咲いている。この辺まではまだ土地が生きているようだ。

 聖母の残党を処理しつつ薄暗い路地裏を歩いていく。もう100体は殺したのではないか、やはり少年の後についているように思われる。住宅街だというのに路地は生活の欠片もなくゴミの腐った臭いひとつしない、無臭だった。

 兎の声。

「角を曲がった先にターゲットがいる」

「毎度思うが、どうしてわかる」

「教えない」 

 こいつのこういうところが、本当に気味が悪いし腹立たしい。

 そもそも目標はどうしてこんな危険区画に住んでいるのか、母親の方が最近流行りの変な宗教にでもハマっているのだろうか。迷子にでもなったか。

 角を曲がる。

 ぼさぼさのコッパーカラーの頭の少年がゆらゆらと揺れながら立っている。長い前髪の隙間からこちらを覗き込んでいた、睨みつけていると言ってもよい。

「目標と接触……RTB……」

「りょー解」

 赤の無線が切れる。

 本当に子供だ。親のものだろうか、Tシャツは明らかにオーバーサイズで袖は七分になり肩が見えている。手足は痩せ細り、髪色は染められたものなのか地毛なのかわからなかった。彼には申し訳ないが学校に通っている風貌には見えない。

 ふと、だぼだぼのTシャツの裾から赤い糸が数本垂れているのが目に入った。まずい。怪我でもされていたら報酬を減らされる。

 屈んで、目線を合わせる。

「腕見せて」

 少年は反応しない、腕を引っ張ると大きな赤い裂け目がぱっくりと口を開いているのが視界に飛び込んできた。思わず目を剥く。一目で他人に裂かれた傷ではないことがわかった。

 傷口の奥にはどす黒い血が溜まり鮮血を絡ませた黄色い脂肪も覗いている。僕は真っ先に昼にぶち撒けられた海鮮丼の雲丹を想像した。その下にも二の腕の方まで太いベージュ色の蚯蚓脹れがいくつも浮かんでいてよれた襟元からもヤケを起こしたかのような滅茶苦茶な横線が走っているのが見えた。彼にとってこれが日常的行為であることを悟る。

「君、リスカするの」

「うん」

「その歳で」

「うん」

 呆れた。

「どこで習った…」

「ママ」

 母親かよ。

 僕は天を仰いだ、藍色の夜空とぼやけた雲しか見えなかった。この街はつくづく終わっているらしい。

「お前の保護が任務だ、ママには一生会えないだろうな」

 いいよ別に、と子供は言う。間髪入れず、表情一つ変えずに。薄情だがそれくらいの気概がないとこちらも張り合いがない。

 いま必要なのはコンシーラーではなく消毒された清潔な針と糸だ。部屋に縫合器具はあっただろうか、中東の紛争地帯では生傷が耐えなかったがこちらに来てからはめっきりそれも減った。あれは店での殴られ蹴られとは訳が違う。ああ、店に行けば当然あるだろうが、子供なんて連れて行ったら治療どころかたちまち値踏みが始まって商品にされてしまうだろう。

「お前は僕の家で預かる、それからどうなるかはあまり期待するな。帰ったら縫ってやるから弄るなよ」

 男児は何も言わない、黙って手を引かれるがままについてくるだけだ。

 兎、全て知っていたのか。

 返答はない。

 薬屋に寄るべきだろうか。


 赤のワゴン車が4回目のエンストを起こしたので僕たちは徒歩で郊外のアパートまで帰ることとなった。

 僕は着ていたパーカーを少年にかけると彼の手を取って歩き出す。帰り道に雨が降らなかったのは不幸中の幸いだろう。

 アパートに戻ると戸口の前に女が立っていた。幸いはここで終わるらしい。

「お店の人ですか」

「君、子持ちだったの」

 返答になっていない。

「御用ですか」

「キスして」

 乾いた血のような赤の薄い唇が疲労でカサついた自分のものに押し当てられる。ザラついた粘膜が鍵盤でも叩くかのように歯列をなぞり僕の舌を絡め取るとぐいと引っ張り出した。

 こういうとき、いつもどうしていいかわからない。前も、その前も、もう思い出せないころから。されるがままだ。

「おまえ、下手くそすぎ」

 パッと唇を離すと女は左頬を思い切り殴ってきた。素人の、しかも女の拳はあまり痛くなかった。

「DV女」

 もう一発お見舞いされる。

 客のに比べれば痛くないが痣は残る。顔に付けられるのは店の連中も客も騒ぐ、面倒だ。こいつはどこだが知らん店の女だから下手に手を出せば店同士の喧嘩沙汰になりかねない。この街で生き抜くにはある程度の妥協と穏便さが必要だ、目の前の女にはどちらも備わっていないようだが。

「パパ、こわいよ」

「…え?」

 なに、なんだ。

「警察に通報します……」

「はぁっ?」

 女は素っ頓狂な声を上げる。

 少年は握っていた手を話すとズボンのポケットからスマートフォンを取り出しダイヤルキーに片手で番号を打ち込み始める。傷が痛むのか手元がおぼつかない。

 ブラフだ。

「呼んでますけど」

 上目遣い。耳に当てる、呼出音が響く。

 女は舌打ちを数度すると僕の肩に自分の肩を盛大にぶつけて踵を返した。よろけるふりをして見せる。高いヒールがカンカンと錆びついた階段を叩く音が遠のいていく。全く、舌打ちを聞かない日はないな。

「助かった」

「……彼女?」

「そんなところ」

「嘘でしょ」

「……」

「お兄さんキス下手くそだもの」

「図星」

「お店ってママが行ってるところと同じところ?」

 今度は僕が質問攻めか。


 長い一日だった。玄関にスニーカーを脱ぎ捨てると少年が屈んで揃え直す、意外とできた子供なのかもしれない。薄い畳を踏みしめると思い出す、そうだ、あれの存在をを忘れていた。

「春巻き食べる?」

「なんで」

「さっきの

 中の具材まですっかり冷めて、トランク内でガソリンの匂いを吸収しふやけた皮。温めれば少しはマシになるだろうか。

「食べる」

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