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六塚

第1話 捨てられた赤子は流れた 前編

一,

马大鸣マー・ダーミン。料理が下手、女の扱いが下手、キスが下手。少食」

「そうだよ」

 そういう設定。

 真っ暗な部屋の薄寒い玄関に一つしかない扉、その横にウサギが一匹座っている。

「ここではちゃんとそういう風に生きてよね」

「ああ」

 トゥの目は動かない。真っ赤な木の実のような、懐かない色をしている。僕は兎をよく知っているから、つぶらだとか可愛いとかは全く思わなかった。変声期前の少年のような声も。

「お前もこんなところに住んでて楽しい?」

 唇が歪む、皮肉。

「体売ってるやつに言われたくないね」

「お互い、仕事だろう」

 仕事だった。马大鸣も、小動物の皮も。

「お前のところの仕事の話だろう」

「当たり」

「さっさと済ませろ」

 それ以外にこいつが僕の部屋に来る理由なんてないのだから、当たり前だ。

「飲食店、魚の臭い、男」

「それだけ?飲食店なんて東京にどれだけあると思ってるんだ」

 いつもより多いんだから、勘弁しろよ、とこの小動物は言う。

「追ってチーから連絡が来る」

「…了解」

 普段は了解の合図で解散になる。

 しかし、兎はジメついた部屋に留まっている。

 目が合った。

「なに」 

 真っ白なうさぎ、垂れた長い両耳だけが煤けたような色をしている。

 なんだよ、いつもみたいにさっさと出ていけ。僕は窓を開けて兎を放り出そうと決める。

「イタイ?フイ

 ぐり。

 兎が膝の上に登ってくるとシャツの上から右の腹にある古傷を抉るように突く。どこにこんな力があるのだろう。

「痛くない」

 イエメンで受けた銃創。

 痛くなかった、もう治っていたから。

「嘘」

 兎は一言悪態をつくと僕の腿を蹴って玄関の方まで走りドアを開けて静かに出ていった。

 明け方まで雨が降っていたし、この付近は舗装されていないから水たまりだらけのはずだ。

 水音一つ立てない兎も、勝手に開く扉も、気味が悪い。


 この辺りは飲食店が多い、次が風俗店、あとはなんだろうか。アパートの向かいのペットショップは先月潰れた。

 食べ物屋だろうか、まともな服屋は少ないが都心に近づけばまだ衣食住の最低ラインは確保されている。

 僕は大通りを抜け、生ゴミ臭い狭い路地に入ると長いのれんを潜った。

 カウンターで注文表を見る、春巻きが安い。一緒に盛られている野菜の量も少ないしこれと水でいいだろう。

「店員さん、すみません」

 马大鸣は廃都に出稼ぎに来ている親孝行な男。少食でものが食べられない、女の扱いに慣れておらず当然遊びにもなれていない、キスが下手。それでもって少し馬鹿。

 テーブルにつくと早速水が出てくる。一口二口と飲むともうこれだけでいいかと思えてきた。

「おい、親指入ってんの見たぞ」

「は」

 店員が戸惑って声を上げる。僕はそれを見ている。ここの料理店のアルバイトには皿を掴むとき親指を皿に突っ込んで持ってくる奴がいる、自分は平皿のメニューしか頼まないからあまり気にしていなかった。

「丼ぶりに、親指、入ってたっつってんの」

 丼ぶりか、丼ぶりは気になるかもな。

「やめましょうよ…」

 重い腰をあげる。仕事以外はできる限り他人に干渉したくないが、仕方がない。

「うるせぇよ、部外者だろ」

 制止したほうの男の腕が木目を滑り海老やイクラの入った容器が真っ直ぐこちらに飛んでくる。

 べしゃり。

 器の中身が全部体にかかった。生臭い臭いが衣服の上から体を滑り落ちる。 

「あちゃー」

「かかっちゃったね」

「ひどいねー」

 周りの客たちが囃し立てる。他人事だ。

 男はどうでも良さそうにこちらを一瞥して舌打ちを何度かしながら当然のごとく金を払わずに店を出ていった。

「す、すみません」

 若い女の店員が厨房の奥からやってくる。僕はその濃い色の口紅と化粧の匂いでもうすぐ自分のバイトの時間であったことを思い出す。

「着換えを…」

「すぐ用事があるので、いいですよ」

 笑顔。理由になっていなかったが、仕方がなかった。

「仕方ないです」

どうしようもないことは全て仕方がないで片付けるしかない。 

「クリーニング代だけでも」

「…大丈夫です」

 作り笑い。

 バイトの時間だ、着替える時間はあるだろうか。

 伝票入れから紙を引き抜き代金を確認すると財布からぴったりの額を抜き取る。

「春巻き、テイクアウトできますか?」


「马、それ、汗で取れちゃわない?」

 真向かいのベッドで鈴木が赤く塗られたボロボロの爪でコンシーラーを指差す。僕は腰と腹の突っ張ったような傷口にそのペールオレンジを塗りたくっている最中だった。

「以外と取れませんよ」

 ふーん。

 興味がなさそうに鼻を鳴らす。

「背中届かないでしょ、塗ってあげる」

そう言うと僕の手からそれを奪い取って肩甲骨の傷跡に塗ろうとする。

「そこは大丈夫です」

「なんで?」

「なんか、羽がもげたみたいとかで評判いいんですよ」

「うわ、あんたの客趣味悪ぅ」

 鈴木が心底不快そうな手付きで先程奪い取ったものを返してくる。

 そうだ。本当に、趣味が悪い。

 だが、その客はお前も相手しているやつだろう。この店にいる連中も来る連中も全員穴兄弟だ。

 それで傷はどこで受けたものだっただろうか、ああ、確か部隊の誰かを庇って出来た傷だった。

 「そうだ、なんかあんたの隣で"煙"使うらしいよ」

 参った、今日に限ってか。

 "煙"。違法薬物をヤサイやハッパと言うのと変わらない。ただ、その文字通り隣室で使われるとこちらもある程度吸うことになる。

「寝室入ったら換気扇回しといて」

「お客さんが許さないと思います…」

 苦笑してみせる、本心も少し入っていた。自分のところの常連客は喫煙者が多く換気扇なんて回していたら変に勘ぐる者もいるだろう、殴られでもしたら本業に響く。

 僕は着替え終えるとロッカールームを出て小上がり和室のある控室の座椅子に腰をかける。鈴木は爪を整えてから来るようだった、除光液とマニキュアの混じった匂いが薄っすらとする。自分の着ている真っ赤なレースのベビードールが深紅のクッションと同化してまるで一つの生き物のようになった。

 僕は気味が悪くなりロッカールームから持ってきたシャツを肩に羽織る。


 目に悪い派手なピンク色の照明、アラビア気取りの陳腐な音楽、くるくる回るカラーボールの光はいつまで経っても慣れない。シャツの下の薄い下着のチクチクしたレースの感触にはそろそろ慣れはじめた。

 東京の娼館は女が5割、男が3割、残りが男女兼用。僕はその余り物、残飯扱いの店で働いている。特にこの店は掃き溜めも掃き溜めで子供であっても親なし子であったり、男だろうが女だろうがとにかく穴が使えれば雇う。

 この店は医療施設の設備を流用していてベッドもそれらを区切るカーテンも備え付けられている。全てくすねてきたものだそうだがそれはどこの店でも変わりはない。床も抜けないしひび割れているが窓もある、換気扇も、さっきから頭上で踊っているカラーボールに婬猥な音楽を奏でるための音楽機材への電気も引かれている。

 上等だろう。最底辺の娼館はそういうものやベッドの仕切りも無いところがザラだった。

 さっきから呼び鈴の音ががなり立っている。もうすぐ客がやってくる、僕は陰鬱になるがその感情はこの先一切顔に出してはならない。

「马さん」

「また来てくれたんですね」

 媚び。马大鸣はサービス精神旺盛な男だ。

「なんか今日は、変わったニオイがしますけど」

 お寿司でも食べました?

「ええ」

 そうですよ。美味しかったです。

 目を細め、口角を上げる。

 笑顔、作り笑い。

 嘘をつく。理由なんてなんでもいいし、どうでもよかった。行為のあとはみんな消えてしまう臭いなのだから。


 佐田は太客だった。

 毎週こんな店には不釣り合いなあり得ない額を落としていく。鈴木のようなガリガリに痩せた女も買うが主に男娼ばかりを買い、お気に入りは马大鸣。僕。

 実家が金持ちらしいが金持ちは皆逃げていったんじゃないのか、街がこんなになっても己の欲には忠実なわけだ。それともこの荒廃した土地は性癖を隠すのに最適なのだろうか。

「马さん」

「马さん、」

「马さんっ」

 童貞のように何度も马大鸣の名前を呼ぶ。

 マーマーうるせぇな、黙りやがれ。

 さっきから、いや半年前にこの店で働き始めてからずっとそうだがこいつからは人を気持ちよくしようという気概が全く感じられない。娼館の客なんて皆似たりよったりそんなものだ。

「马さん、これ、どこで入れたの……」

 佐田の指が腰椎をなぞり仙骨の上で止まる。腰の傷を隠すように彫られた蝶のトライバルタトゥー。

「中国に腕の良い彫師がいるんです……」

 はあ。

「交通事故で怪我をしたんですけど、快く入れてくれました……」

 あ、あ。

「へぇ……」

 フ、フゥ。

「これとどっちが痛かった……」

 自分の中で男のものが膨らむ。

「わ、わからないです……」

 シーツの上に涙を数滴こぼす、語尾を震わすのも忘れない。

「今日は部屋の半分しか人がいないじゃないか……」

 フゥ。

「あ、ァ……」

 あ。

 隣のベッドとを隔てる仕切りから紫の煙がもくもくと漏れ出ている。カーテンが揺れる。獣の唸り声のような男の声と女の狂ったような嬌声が漏れ出ていた。


 雨樋から水が叩き落ちる音で目が覚めた。

 バリバリに割れたガラスの向こうは土砂降りで遠くから猫の鳴き声と雷鳴が聞こえる。

 客の吸っていった煙草の残り香と隣から漏れる"煙"で咽た。

 東京はもはや原型を留めていなかった。街中のいたる所に娼館がある。

 この街は荒廃した。緑は生い茂り……草ボーボーってこと。動物は野放し状態、飼い主たちはペットを放り出して逃げていった。そういうのを兎みたいな奴は乗っ取って生きている。僕らは兎の上司に頼まれて仕事を引き受けて、足りない分をこういうバイトで埋め合わせる。

「いつまでも寝てんな、起きろ」

 窓の外から少年の声が聞こえる、兎だ。赤から情報が入ったのだろう。腰が痛かったが無理をしてシーツからベタつく身体を引き剥がし、声のする方…裏手のドアを開ける。

「赤から連絡」

 兎が軒下にいた。外は豪雨のはずなのに兎の体には雨粒一つ付いていなかった。

 雑巾かお前、と足元で揶揄される。

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