第3話

 俺―黒田悠人は、一人息子だった。

 父の武は建設会社に自宅から車で通っていた。稀に酒を飲みすぎること以外は、よい父だったと思う。

 母の由里は専業主婦だった。毎日家族三人分の食事を作り、雑務をこなし、会社から帰ってきた父を笑顔で出迎える。男女平等が唱えられているこの時代、いささか古い気質の家庭で、昭和とまるで変わらないような典型的な主婦だったが、特に不満を漏らすこともなく、むしろ楽しむように家事をこなしていた。

 しかしある日、そんな家庭は一瞬のうちに崩壊した。物事は積み上げてきた年月に関わらず壊れるのはあっという間なのだと、悠人はこの時学んだのだ。  

 悠人は当時、十歳を目前に控えた小学生だった。いつも通り学校から帰ると、ただいまー! と、まだ玄関の扉が開いているのにもおかまいなく、大きな声で母に呼びかけた。家に帰ったら、必ず「ただいま」と言うこと、そして家にいた者は「おかえりなさい」と言うことは、父が決めた黒田家の家訓だった。

 しかし、母の返事はなかった。聞こえなかったのかな、と思い。もう一度悠人はただいま、と言う。今度はさらに大きな声で。けれど返事はなかった。

 玄関に母の靴があるのを確認して、悠人は首をかしげる。いつもの母ならすぐにおかえり、と返事をするのに。どうしたんだろう。

 おかあさーん、と呼びながら母を捜す。リビング、キッチン、バスルームまで見たが、母はいない。

 その時、ふいに母の声が聞こえた。

 聞き取れないんじゃないかと思うくらい、小さく、か細い声だった。

 その声は、いつもの「おかえり」の返事ではなかった。

「ゆ、ゆう、悠人……」

 母がどこからか自分を呼んでいた。悠人は必死に声に耳をすます。家中を歩き回って、声が一番大きく聞こえるところを探した。

 トイレの前に来たとき、閉まっていた扉の隙間から、中の様子が見えた。そこに母の髪がちらりと覗いたのに、悠人は気づいた。

 バン、と大きな音を立てて、悠人はトイレの扉を勢いよく開いた。

「おかあさん!!」

 母は床に倒れていた。苦しそうに両手で胸を押さえていた。

 その様子を見て、ただ事ではないことが幼い悠人にも分かった。

 悠人は背負っていたランドセルを投げ出し、母の肩を揺さぶった。

「おかあさん、おかあさん!」

「ゆ、悠人……。救急車を、呼んで、くれる……?」

 母に言われ、悠人は、急いで固定電話へと走った。119、と震える指で押す。受話器を持つ手が、気を抜けば滑って取り落としてしまいそうになるくらい、汗ばんでいた。

 おかあさんが、学校から帰ってきたら返事がなくて、探したら、トイレで倒れてて、救急車を、呼んでって、おかあさんが……。

 電話に出た大人に、悠人は早口で喋った。救急車を呼ぶなんて初めてのことだったし、何しろこんな状況に立ち会ったことも今までの人生で一度もなかった。何をどう話していいのか、混乱した頭は要領を得ない説明を口にさせた。

 おかあさん、おかあさん、おかあさん……。

 救急車を待つ間に、母の呼吸はだんだんと荒くなっていった。スーッ、ハーッ、と普段しない呼吸の音を、母は発した。

 みるみる弱っていく母を前に、小学生の悠人は自分がどうしていいのか咄嗟に判断がつかなかった。誰かに頼りたかったが、いつも悠人が頼っている母は今倒れている。

 悠人は、救急車が来るか窓の外を覗いたり、母のそばに行ったりして、トイレと窓を何度も何度もせわしなく往復していた。悠人なりに、何か母の役に立ちたかったが、結局そうすることしかできなかった。しばらくして、父に連絡しなければと、はっと思いつき、再び固定電話まで走っていった。

 母、由里は息子のそんな様子を、かすんでいく視界の中でも、ずっと見ていた。自分がこんな状況でも、息子のことを第一に思いやる、優しい母だった。

 どうか、息子を幸せにしてください、と由里は願った。自分はもう助からないだろうと、直観的に分かっていた。

 どうか、悠人だけは。悠人は、ずっと、元気でいてね。

 

 母がいなくなってから、家事をする人がいなくなった。父には仕事がある。必然的に、家事は悠人に任されることになった。悠人は学校から帰ると、掃除をし、夕飯を作り、その他雑用をこなしながら父の帰りを待った。そのため放課後友達と遊んだり、ゲームをしたりすることができなくなった。それでも悠人はこれが自分のやらなければいけないことなのだと理解し、父に言われるがままに素直に家事をこなしていた。

 月日は流れ、母の四回忌を迎えた。中学生になった悠人はすっかり料理に慣れ、夕飯をさっと作り終えた後は、洗濯物を畳みながらテレビを観ることが毎日のルーティーンになっていた。

 その日も悠人は学校から帰ると、手を洗ってすぐにキッチンに向かった。タケノコとキノコの炊き込みご飯と鮭の西京焼き、それから豆腐と油揚げの味噌汁を用意して、バラエティー番組を観ながら父のシャツを畳む。そのとき悠人はふと気がついた。父のシャツに、赤い線のようなものが薄く染みていたのだ。口紅だと気づくのに、そう時間はかからなかった。          

 わはははは、とテレビからの笑い声が部屋に響いていた。母がいたころと変わらないこの家は、父と悠人だけでは広すぎると感じていた。

 悠人はシャツを畳む手を止め、じっとその口紅の跡を見つめた。

 赤く染まったその箇所に手を伸ばしかけたとき、ピンポーン、と家のチャイムが鳴った。

 悠人はシャツをまるで隠すかのように他の衣類で上から重ねてから、階段を降りた。

 外に出ると、そこには中年の男がふたり立っていた。その男達の服装を見て悠人は思わずぎょっとする。警察の恰好を、そのふたりはしていた。

 「黒田武さんの自宅は、こちらで合っていますか」

 口調は丁寧だったが、どこか威圧感のある声だった。悠人は咄嗟に、一歩後ずさりした。

 父のことを聞かれているのに、俺は何か悪いことをしたかと反射的に考えてしまう。自分に特に思い当たる節はなかった。助けを求めるように、悠人は周りを見渡した。

 家の前には、パトカーが止まっていた。近所の人が、何事かと外に来て遠目から自分達の様子うかがっていた。見ているのに、決してこちらには近づこうとしない。

 ぞわりと、鳥肌が立った。周りの人達の視線が、自分を気遣うものではなく、責めるものに感じたからだったからだ。悠人は咄嗟に、その視線達から逃れるように顔を伏せた。

 警察官のうちのひとりが、低い声で告げる。

 「黒田武さんを、過失運転致死罪の疑いで逮捕しました。あなたは、息子の悠人さんですね? 少々、お時間をいただいても?」

 結局、その日作った夕飯は食べられることはなかった。掃除も、洗濯も、悠人はやらなくなった。身寄りがいなくなった悠人は叔母の家に預けられることになったからだ。

 父は中学生を轢き逃げしたのだった。そして情けないことに、人を轢いたほんの300メートル先で警察に捕まった。現場のすぐ近くに交番があったのだ。逃走していた父は、あっけなくそこで捕まった。そして、父が乗っていた車の助手席には、悠人の知らない女の人が乗っていた。

 逮捕されてから留置所で一度だけ、悠人は父と面会した。

 アクリル板越しに久しぶりに会った父は、驚く程以前と容姿が異なっていた。ある程度は予想していたが、まさかここまで別人のように変わっているとは思いもしていなかった。父の頬はこけ、目の下には濃いくまがあり、唇はかさかさに渇いていた。

 聞きたいことは山ほどあったが、悠人はまずこう尋ねた。

「今、父さんが欲しいものは何?」

 被疑者の家族は、被疑者に差し入れを持ってくることが許されている。

 悠人はこのとき、まだ父のことを自分の家族だと思っていたのだ。犯罪者になろうとも、悠人にとっては、この世にいるたったひとりの家族なのだから。

 だからそのときした父の返答は、悠人の心を、がたがたに揺さぶった。

「……金。女」

 ガーン、と頭に鉄を叩きつけられたかのような衝撃が悠人に下った。

 唖然と口を半開きにしている悠人に、父は弱い声で、しかしはっきりと繰り返し言う。

「金、女、くれ。金、女……」

 蛍光灯に照らされた父の顔は、無表情だった。目は悠人ではなく、どこか遠く一点を見つめている。

 ああ、と悠人は思った。この人は、変わってしまったんだ。母がいなくなってからの家庭は、表向きはきれいでも実はかりそめだらけで、父の心もむしばんでいったんだ。

 そのとき、プツン、と悠人の中で何かが切れた。

 心のたがというか、歯止めというか、悠人の感情の安全ピンのようなものが外れる音だった。

 悠人はパイプ椅子からゆっくりと立ち上がった。そして、全身の力を、右手の拳一点に集中させる。

 バーン、とすさまじい音が室内にこだました。握った拳に、鈍い痛みが走る。

 アクリル板越しに、悠人は父を殴っていた。

 悠人の拳はアクリル板に止められ、目の前にいた父にはかすりもしなかったが、音を聞きつけた警察官が、室内にやってきた。

 人を殴るのは、これが初めてだった。これから悠人は人が変わったように他人に暴力を振るうようになる。自分を制御することを、悠人はこの瞬間から意識的にやめたのだ。

 おい、どうしたんだ、と駆け付けた警官に尋ねられても、父は、ぼーっと宙を眺めたままだった。悠人は心の中で叫ぶ。本人に言ったところで、もはや意味などないと分かったからだった。

  かっこ悪い。本当に、父さんはかっこ悪い。


 祥太は俺から受け取ったシュークリームを、器用な手つきで半分に割った。はい、と俺に渡そうとする。

 俺は首を振った。

「いいよ、それは君へのお土産なんだから」

 そう言うと祥太は寂しそうに俺を見た。よく二人で食べてたじゃないか、いいから受け取れよ。祥太はシュークリームを再び俺に差し出した。

 シュークリームを、中学生の男子ふたりが仲良く食べている姿を想像して、俺は少し微笑ましい気持ちになった。

 別に自分も食べたからといって、約束が破られたわけではないよな、と心の中で蓮に確認する。

 クリームが手につかないように慎重につかみながら口に運ぶ。やっぱ美味いよなあ、俺らって割と甘党だよな、と祥太が笑いながら言った。本当に美味そうに食う奴だ、と俺は思った。

 祥太は俺と話していく内にだんだんと笑顔が増えていった。初めはどこかぎこちなかった笑顔が、徐々に心からの笑顔になっていくのを見て、俺は、ほっとした。

 きっとこれなら一人になっても大丈夫だろう。もうこいつはちゃんと生きていける。

 そう俺は確信し、席から立ち上がった。祥太が驚いたように言った。

「蓮、もう行っちゃうのか?」

「ああ、祥太、元気でな」

 俺がリビングから出ようとすると、祥太が慌ててついてきた。

「蓮、待って」

「僕はもともと君を元気づけるために来たんだ。もう君は大丈夫だよ」

 本当は、シュークリームを渡すためだったが、俺はそう言った。

「長居して、悪かったよ」

「蓮は、どこに行くの?」

 俺は祥太をゆっくりと振り返った。祥太の目には不安の色が浮かんでいた。

「……俺、蓮がいなきゃ嫌だ。せっかく会えたのに、もういなくなっちゃうのかよ?」

 そう言いながらも、祥太にさっきまでの怯えがほとんどないことに俺は気づいていた。俺はできるだけ優しく聞こえるように、言った。

「大丈夫、僕はいつでもそばにいるから。君をひとりにしたりしない」

 でも、と祥太は言った。

「でも、蓮はどこに帰るんだよ。天国かよ? お前は、交通事故で死んだのに」

 その刹那、俺は全身に衝撃を感じた。

 ―交通事故?

 交通事故、蓮。

 交通事故。

 ざああーっ、と記憶一気にが頭の中を流れていく。

 半年前。父が逮捕されてすぐに叔母の家に引き取られた俺は、一度だけ、父のいる留置所に行った。そこで父を殴ってから、二度と父とは会わなかった。会いたくなかった。

 それから俺は、叔母を通して父の状況をことあるごとに聞いていた。

 弁護士がついた、裁判の日にちが決まった、無罪を主張して―

 もう他人も同然だと思っていた父の状況になんて、さらさら興味がなかったが、叔母は父に会おうとしない俺を心配して、細かく報告した。

 しかし唯一俺が興味を持った話があって、それは事件の被害者が自分と同い年の中学生だということだった。

 かわいそうに、と叔母は同情するように言った。

「塾からの帰り道だったそうなの。青信号の横断歩道を渡っている時に轢かれたようで。本当にかわいそうに。明らかに非は武さんにしかないのに、無罪を主張するなんてねえ……」

 俺は傲慢な父を改めて憎んだと同時に、その被害者に心底申し訳なく思った。そして、自分と同い年の子どもでも死ぬのだと考えると、寒気がした。

 だから、よく覚えている。

 その被害者の名前は、市ヶ谷蓮。

 ―蓮だ。


 突然黙った俺に、祥太が心配そうに俺の顔を覗き込んで話しかける。

「蓮、どうしたんだ? 顔色、悪いぞ?」

 顔を上げると、祥太と目が合った。その途端、ぐらん、と視界が揺れ、俺は身体のバランスを崩した。

 次の瞬間、俺は祥太の腕の中にいた。

「蓮、どうしたんだよ。……蓮!?」

 祥太が俺の身体を勢いよく揺らす。俺はその間、ぼうっと目の前の祥太の腕や着たTシャツを見ていた。

 ―父が轢いたのは、蓮だった。

 頭に靄がかかったように、ぼんやりして、何も考えられなかった。身体に力が入らなかった。

 蓮は、父に殺されたのだ。

 そう分かった瞬間―。胃がぐーっと締め付けられた。

 叫びたい衝動に駆られた。

 さっきまで、俺は何をしていた!? そう、祥太を元気づけようとしていたんだ。でも、祥太が悲しんでいた原因を作ったのは、俺の父だ。蓮が死んだのは、俺の父さんのせいだ……!

 全身に、さあーっと鳥肌が立っていった。心臓から指先まで、急速に身体が冷えていく。

 俺には、何の権利もない。元気づけるなんて、もってのほかだった。なのに、俺は……!!

 蓮、蓮、と祥太が俺を呼ぶ声が遠くに聞こえた。今の祥太にとって、蓮という名前は俺を呼ぶ名前だ。そう考えると、罪悪感にも嫌悪感にも似つかない感情が、俺の胸に沸き上がった。

 俺は、蓮じゃない。

 俺は祥太の腕の中から勢いよく抜け出した。

 「ごめん、何でもない」

 俺は祥太に頭を下げた。

 え、蓮? と狼狽した様子の祥太が、おろおろと俺に近づいてくる。

「どうしたんだよ、お前、大丈夫なのか?」

「ああ、大丈夫」

 俺は無理をして笑った。

 俺の笑顔が作り笑いだとは気づかずに、祥太がほっとしたように頬を緩めた。

「よかった」

「じゃあ、僕はもう行くから」

 玄関で靴を履き替える。

 じゃあな、と祥太は言った。腕をぶんぶんと振って、笑顔で言う。

「蓮、じゃあな!」

「ああ」

 玄関から出る。俺は震える足を、懸命に動かした。


 走った。ひたすらに、走った。

 あてもなく走ったおかげで、息を切らして足を止めたときには、そこがどこだか分らなかった。見慣れない風景が、そこには広がっていた。

 すれ違いで、手を繋いだ親子が道を通っていった。

 ―今日の夕ご飯はなあに、おかあさん。

 ―そうねえ、みーちゃんの好きなハンバーグにしようか。

 地面に長く伸びた親子ふたりの影が、自分の影と重なっていた。

 苦しい。苦しい。つらい。

 俺は泣きたくなっていた。

 母さんは死んだ。父さんにも会えない。友達だって、俺には、いない。こんなこと、とっくに分かっていたくせに、今までは平気だったはずなのに。こんなこと、なかったのに。

 今日、気づいたのだ。

 俺が今まで平気なふりを、強がりを続けてこられたのは、色々なものを犠牲にしてきたからだ。まわりの人を、散々傷つけてきた。

 俺には、暴力しかないのだ。もう、それしか残っていない。 

 俺は父のことを諦めた。それは愛想を尽かしたのではなく、本当は向き合うことから逃げただけだった。そうやって現実から目を背けてきた俺は、今日初めて祥太や蓮に会って、目前の現実を突き付けられたのだ。ずっと逃げてきたことの代償のように。

 くそっ、と叫びながら、そばにあった石を思い切り地面に向かって投げた。石は弱く跳ね返っただけだった。

 俺は拳を握り、自分の額を殴った。

 自分に対してでも、躊躇はしなかった。ゴッ、と鈍い音が響いた。口の中に、血の鉄の味が広がっていく。

 右と左の額を、交互に殴る。

 もう嫌だ。もう、嫌だ。

 俺は泣きながら、自分を殴り続けた。

 すべて、終わってしまえ。すべて、壊れてしまえ。

 喉の奥から、枯れた声が絞り出された。

「死ねよおおおお!!!」

「僕はもう、死んでるよ」

 え、と俺は小さく漏らす。

 ―今の声は。

 信じられない気持ちで、ゆっくりと、顔を上げる。

 そこには、自分と瓜二つの顔立ちをした、自分と同い年の、少年がいた。

 ふっ、とその少年は笑う。

「約束通り、お金を渡しに来たんだよ。はい、30万」

 背負っていたリュックから札束を取り出す。周囲に見えないようにそれを紙袋に入れ、俺の手に握らせる。

 無邪気な声で、そいつは俺に尋ねる。

「30万、君は何に使うの? 僕だったら、小説を大量に買い込むなあ。読みたいけど買えていない小説が、たくさんあるんだ」

 カア、カア、とカラスの鳴き声が空高くから聞こえていた。淡い色の夕陽が、人々の顔を照らし、背後に長い影を伸ばす。俺に30万を渡した少年の足元にも、ひとつの影ができあがっていた。

 死人でも影はできるんだな、と俺は場違いにも、ぼんやりとそう思った。

 「俺を殺してくれないか。蓮」

 ぽつりと、俺は言った。

 冗談ではなかった。俺は本気で、そう言った。

 蓮の目が、大きく見開かれる。どうして、と蓮は言った。

 「どうして? 君はせっかく生きていられるのに、どうしてそんなこと言うの?」

 いらない命なら、いっそのこと僕にくれよ、と言う。

 「祥太を元気づけてくれた君が、死にたがってどうするの」

 「あれは、ただの俺の自己満足だ」

 「それがなんだよ!」

 蓮が低い声で怒鳴った。俺はびくりと体を震わせる。

 周囲の人々の視線が、一瞬俺らに集まった。

 蓮は怒っていた。

 「お前、自分が偽善者だとか思ってるのか!? いいか、よく覚えとけ。人に死ねとか消えろとかくだらない暴言吐くよりは、そうやって人に優しくする方が、百倍、賢明なんだよ! たとえそれが偽善でも!」

 それと、と蓮は吐き捨てるように言う。

 「生きたい、心から生きていたかったと思っている人間に、殺してくれなんて言ってのけるお前の精神が、僕には全く理解できない。人は誰でも、色々な事情を抱えて生きてるんだよ。苦しい思いしてるのは、お前だけじゃないんだ。それでも、生きていかなきゃいけないんだよ。必死になってでも、生きて、幸せになってみろよ!」

 蓮はじっと俺の目を見つめた。蓮の眼光は、俺の胸にまで突き刺さった。

 「僕は今日、元気になった祥太を見ることができた。これでもう、心残りはない。この世に未練がなくなった僕は、もうすぐこの世から完全に消える。君には、僕の最期を、見ていてほしいんだ」

 風が、連と俺の間を、さあーっと吹き抜けていった。蓮の髪がさらさらと揺れた。

 「君は僕にそっくりな顔立ちをしているよね」

 どこか遠くを見て、蓮は言う。この世の全てのものを噛み締めるように、ゆっくりと話した。

 「僕は、この世に残してきた家族や友達が心残りで、ずっとこの世界をさまよってきた。特に気になっていたのは祥太で、あいつはずっと僕の死から立ち直れていないようだった」

 蓮はまっすぐに俺を見つめる。きれいな、澄んだ目だった。

「だけど僕は、祥太に直接声をかけることはできなかった。僕自身、怖かったんだ。生前親しかった友人と話す自分が、泣いてしまうところを容易に想像できてしまって」

 そしたら、君を見つけたんだ、と蓮は言った。

「僕とそっくりな君なら、僕の役目を果たせるじゃないかって。僕がやり残したことを、してくれるんじゃないかって、思った」

 俺は黙っていた。本当は黙っていたのではなく、話そうと思っても何も話せなかったのだ。喉元にせり上がってくる気持ちを、どう言葉にすればいいのか分からなかった。

 あのシュークリームはね、僕と祥太の思い出の味なんだ、と蓮は言った。

 ふと見ると、蓮の手先が消えかかっていた。思わず、わっ、と俺は声を上げる。

 手先からどんどん、蓮の身体は消えていく。蓮は少し悲しそうな顔をした。

 「……もう、お別れだね」

 「蓮」

 俺は蓮の名前を呼んだ。

 このまま何も言わなければ、きっと何も伝えられずに終わってしまう。

 すう、と息を吸って、言う。

 「殺してくれ、なんて言って悪かった」

 俺の言葉を聞くと、蓮は優しく微笑んだ。

 次の瞬間、すっ、と静かに、蓮は消えた。

 そこには俺と、紙袋に入った30万だけが残った。


 この金で何をしよう。俺は考える。なんだか蓮の形見のようで少々使いずらい。

 しばらくそこで黙って立っていると、風に乗ってふわりとハンカチが飛んできた。

 思わず俺はそれを手に取る。花柄の女物のハンカチだった。すると、すみませーん、と背後から声が聞こえた。

 ああ、と俺は気づき、ハンカチをやってきた女性に渡す。ありがとうございます、とお辞儀をされた。

 とりあえず、シュークリームでも買って帰るか、と俺は思った。叔母さんの分と俺の分。―それから、いつか父さんが帰ってきた時のために、お金は全部使わずに残しておこう。一緒に美味しいものを食べるんだ。

 紙袋をしっかり持って、俺は歩き出す。夕焼けが美しく街を照らしていた。

 長い長い道を、俺は転びそうになりながらも、一歩一歩、歩んでいった。

 




 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

YUTO 各務あやめ @ao1tsuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る