第2話
「……とりあえず、上がれよ」
そいつはしばらく肩で息をしていたが、少し経つと落ち着いたようだった。俺を玄関に通し、スリッパを並べる。本当はすぐにシュークリームを渡して去りたかったが、なんとなく、断りずらい雰囲気があった。
「ありがとな」
仕方がなく、俺は蓮らしい礼をしてみた。シュークリームを渡そうとしたところで、そいつは睨むような目つきで俺を振り返った。
「……あのさ」
低い声で、俺に話しかける。鋭い眼光で見られ、一瞬俺は怯んだ。
「……何?」
「これ、現実だよな?」
そいつの目には不安のような色が浮かんでいた。ひどく怯えているようだった。
何が、どうなっているのだろう。
今、この場で何が起こっているのかは分からない。しかしそれは俺だけじゃなく、目の前にいるこの男もそうなのかもしれない。直観的に、そう感じた。
答えのいらない質問というものもある。そいつは俺が何か言う前に、背を向けて歩いて行った。
「適当に座れよ。お前は、コーヒーでいいよな?」
俺が頷くと、そいつは黙ってキッチンへ向かった。いくつもの棚を開け、客用のカップを探し、不慣れな手つきでコーヒーを淹れ始める。
沈黙が落ちた。食器のカチャカチャという音だけが、部屋に響いていた。
俺は周りを見渡す。きれいな部屋だと素直に思った。カーテンの隙間から射す日がきらきらと床を照らしていた。
殴りも蹴りもせずにこんな長時間人と話すのは久しぶりだ。暴力を振るわずに言葉だけで意思を疎通する。相手は俺と普通の人間として接する。緊迫していない、ゆるい空気。暴力さえなければ、世界はこんなにも違ったものに見える。日常に暴力がある世界と、ない世界。普段いない側の世界に足を踏み入れたようで、違和感とかすかな懐かしさを覚えた。
「……蓮はさ、元気だったのか? 俺ら、しばらく会ってなかったじゃん」
キッチンでコーヒーを淹れながら、そいつは言った。どこか覇気のない声だった。
「……元気だったよ」
蓮のふりをしながらも、つい、俺もつられて少し声が小さくなった。
そいつは小さく笑った。
「もう一度だけでいいから蓮に会いたいって、何度俺が願ったと思う?
だけど、願えばちゃんと会いに来てくれるんだな。感動した」
それから少し寂しそうに笑って言う。
「葬式の時、俺泣けなかったんだ。衝撃が強すぎて、実感がまだ湧かなかったんだ。……今でも、全く実感なんてない」
―葬式。
俺は口の中で、小さくその言葉を反芻したを
葬式。俺が今までの人生で幾度となく口にし、苦しめられてきた言葉。
瞬間的に、過去の記憶が頭の中で駆け巡った。
葬式。人の死。俺はあの時、泣いていただろうか。
「……お前は」
俺の口から、声が漏れた。蓮としてではなく、俺としての声だった。
「お前は、まだ泣けていないのか?」
そいつはしばらく何も言わなかった。とっくにコーヒーなど淹れ終わっているだろうに、そいつはキッチンから離れないでいた。
そいつは俯いていた。
やがてぼそりと、言った。
「ああ。……本当に今でも信じられないでいるんだ」
芯のない声が、部屋に静かに落ちた。
「―蓮が死んだなんて。今でも、信じられないよ」
3か月前、蓮は死んだ。交通事故だった。
蓮の親友―祥太は、その知らせを受けた時、冗談を言われているのかと思った。
祥太は、いつも通り学校から帰って夕飯を食べて、スマホを見て、テレビを観て、そろそろ風呂にでも入るかとテレビを消そうとしてリモコンを散乱した部屋から探し出そうとしていた。
あちこち物をひっくり返して探す。なかなか見つからずイラつき始めた頃、家の電話が鳴った。
はいはい、とエプロン姿の母が洗い物を中断してキッチンから小走りでやってくる。
はい、中島です。はい、はい― ええっ、蓮君が?
蓮の名前を聞き、祥太は顔を上げた。蓮がどうしたんだろう。
蓮は幼稚園からの幼馴染だった。親同士でも仲が良かったらしく、家族ぐるみの付き合いだった。
電話をする母の声がだんだん悲鳴のような切羽詰まったものになっていった。ただ事ではない、何かが起こったのだろうと、祥太は察した。
しかしその「何か」が蓮の死だとは想像もしなかった。
途端、ガチャン、と何かものが落ちる音がした。
驚いて、祥太は咄嗟に音のした方を向いた。
床に、母が握っていたはずの受話器が転がっていた。
母が呆然としたように、そこに突っ立っていた。
「母さん、どうしたんだよ」
祥太が聞くと、母はゆっくりと振り返った。顔は蒼白で、足は震えているようだった。
「……蓮くんが。祥太、蓮君が」
その続きを、蓮は信じられない気持ちで聞いた。
「蓮君が、亡くなった、って……」
―それから後のことはよく覚えていない。
母と、それから蓮と祥太の共通の友人何人かと葬式に出た。参列した後の帰り道、雨の中を傘も差さずに歩いた。
蓮が死んでも、日常は何も変わらなかった。変わったのは、もう蓮の番号に電話をかけても誰も出ないことと、学校の登下校で蓮が隣にいないことくらいだ。
けれど。
祥太は思う。今更ながらに思う。自分はとんでもなく大きなものを失ってしまったのではないかと。
蓮に会いたい。せめてもう一度だけでもいいから、会いたい。会ってもう一度、話したい。
涙は出なかった。そのかわり、祥太の心には、大きな穴のようなものが開いた。祥太は次第に、笑わなくなっていった。
学校にも行かなくなった。クラスメイトに会うと思ってしまうからだ。蓮じゃなくて、お前らが死ねばよかったのに、と。そう思ってしまう自分がもっと嫌で、誰にも会いたくなくなっていた。
一日のほとんどを、部屋に閉じこもって過ごす。勉強するもスマホを見るもせず、ただベッドに横になって何も考えずにいる内に、あっという間に時は流れていった。
両親は必死に祥太を学校に行かせようとした。せめて保健室登校でもいいから、と無理やり祥太を家から引っ張り出そうとする。けれど祥太はそれを拒んだ。来年は高校受験だってあるのにどうするんだ、と父に怒鳴られる。いつまで落ち込んでいるんだ、内申だって悪くなる一方だ、学校に行け、勉強しろ。
そんなこと分かってる。だけど無理だ。一度休み始めてしまうと、癖になったようにもう二度と行く気にはなれなかった。もういいから、そっとしといてくれ。
どこにも行かない、家から一歩も出ない。そんな生活が始まって、半年が経った。両親はついに学校に行かせるのを諦めたらしく、家庭教師を雇うと言い出した。
祥太は嫌だった。とにかく一人にしておいて欲しかったのだ。
死にたい。
いつしか祥太はそう思うようになっていった。
明日から家庭教師が来ると父に言われ、もうすべてをやめてしまいたいと思ったころ。そんな時だった。家のチャイムが鳴った。
昼間は両親がいないため、祥太は仕方がなく部屋から出た。面倒に思いながらドアを開ける。
しかしそこにいたのは、死んだはずの蓮だった。
始めは嘘だと思った。しかしどこからどう見ても蓮だった。
嬉しかった。久しぶりに、本当に嬉しいと思った。
祥太がようやくコーヒーを持ってきてくれた。俺は黙ってそれを口に含む。ミルクも何も入っていない、ブラックコーヒーだった。その苦さが、胸にまで沁みていくようだった。
―蓮が死んだ。
こいつは今、確かにそう言っていた。
ぐっ、と心に何かが心に突き刺さるような気がした。親しい人を亡くした悲しさ。苦しさ。
こいつは多分。多分、まだそれを乗り越えられていないんだ。
自分の息がかぼそくなっていくのが分かる。胸がしめつけられていた。
シュークリームを。シュークリームを渡して、帰るだけで良かったはずなのに。
俺は今、こいつともう少し話していたいと思う。こいつの話を聞いてやりたいと思っている。
俺はシュークリームが入った紙袋を、 抱きしめた。
その時、ふと思った。
蓮は死んだ。もしも本当にそうなら。
俺が会ったあいつは、一体何だったんだ?
―僕の名前は蓮だから! くれぐれも、偽物だとバレないようにねー!
あいつは確かにそう言っていた。
どういうことなんだ?
だんだんと混乱してきた。蓮は死んだんじゃないのか?
俺は考える。あいつこそ、蓮の偽物なんじゃないのか? だって蓮は死んだのだから、この世にはもういないはずだ。
それとも、まさか……。
俺が考えていると、ふと祥太が言った。
「なあ、今日蓮は何しに来たんだ? 何か用があったのか?」
祥太は笑っていた。
けれど、と俺は思う。
大事な人を亡くした人間。気持ちが深く沈んでいる人間。そういう人間がまとっている特有の雰囲気のようなものを俺は知っていた。話していても目の焦点が合っていない。笑っていても頬は強張ったように震えている。常にどこかぼんやりと遠くを見つめている。
そしてそういう人間ほど、誰かに心配されるのを嫌う。他人と深く関わるのに抵抗する。
祥太にも、そんな雰囲気があった。
俺は息を吸って、決心した。
シュークリームを紙袋から取り出し、目の前に座っている祥太に勢いよく差し出す。
「蓮? これって……」
「あのさ」
俺は祥太の言葉を遮って言った。
「僕は今日、君を元気づけるために来たんだ。シュークリームでも食べながら、話そうよ」
祥太は呆気にとられたように、しばらくぽかんとした表情をしていた。
シュークリームと俺の顔を交互に見る。短い沈黙の後、やがて、ああ、と声を漏らした。喜んでいるような、泣いているような表情をする。
「このシュークリーム……。二人でよく食べたよな」
そう言って、俺から受け取ったシュークリームを、懐かしそうに眺める。大切な思い出を噛み締めるかのように、祥太は小さく何度も頷いた。その目には、涙が溜まっていた。
俺は優しく微笑みを返す。
「何でも話せよ。……僕は、ちゃんとここにいるから」
俺は決めたのだ。
今日は蓮のふりを貫き通して、祥太と話すこと。そして、祥太を、蓮の死のショックから立ち直させることを。
こいつと俺は本来なら出会っていなかったはずの他人だ。だからこいつの話を聞くこと、ましてやこいつを慰めようとすること、元気づけようとすることなんて、自分のエゴでしかない。頭では分かっていた。
けれど、頭では分かっていても、心では分かっていなかった。
衝動的に思った。目の前で倒れかけている人間がいるのだから。崩れかけている人間がいるのだから。
俺はこいつを救いたい。助けたい。
そう、思った。
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