YUTO

各務あやめ

第1話 

 ねえ、と声をかけられた。知らない声だ。

 振り返る前に、俺は一瞬考えた。かけられた声を知っているか、もう一度脳内で検索をかける。いや、俺はこの声を知らない。しいて言えば自分の声に似ているような気もするが。

 ここは街中だ。街中で知らない奴に声をかけられる……。道を尋ねに来たのか? それとも、ナンパか? そういえば、前に俺に声をかけてきた女子は、典型的なナンパをしてきたな。そういう経験は俺は多いほうだった。はたから見ると、俺は軽い男に見えるらしい。あまり健全とは言えないようなことを日常としている奴らに、俺はしばしば仲間扱いされるのだ。俺自身もそれを拒まないが、別に積極的に関わろうともしない。俺は人間と関係を持つことにさほど興味を感じていないのかもしれない。他人と深く交わって生きていくことに、どこか諦めた節が、そのときの俺にはあった。

 俺が黙っていると、ねえ、ともう一度声をかけられた。この声の低さは男だ。

 俺はそいつを無視することにした。不審者に認定したからだ。

 待って、とまた同じ声がした。俺を追いかけてくる。

 うるさい。

 短気な俺は、鬱陶しくなって足を速める。

 それでもそいつはついてきた。

 さらに俺が早足にになると、そいつの足音のリズムも早くなった。

 うるさい、なんなんだ、こいつは。

「あの、ちょっと待って」

「うっせー、それ以上何か言ったら殴るぞカス」

 振り返り、俺は素早く拳を振りかざしてみせた。すぐに動きは止めたが、こういうことに慣れていない奴にとっては十分怖かったのだろう。うわっ、と怯えたように相手は体をのけ反らした。

「この俺に話しかけるとは、なかなかいい度胸じゃねえか」

 腰を抜かしている相手を嘲るように鼻で笑いながら、俺は言ってやった。

 相手を怖がらせたことに俺は一旦満足していた。俺はこいつよりも上だ。優越感を味わう。

 俺はよく暴力を振るう。大人はそれを咎め、不良に育ってしまったと評価することもあるが、そんなことは俺の知ったことではないと思っている。これは俺の問題で、他人にとやかく言われるような筋合いはないからだ。

 他人のことなんて傍から信じていなかった。人は俺のことなんて見捨てている。今までの人生で嫌というほど感じてきたことだ。今更俺が人と対等に話そうとするなんて馬鹿げている。しかし言葉がなくても暴力さえあれば俺は生きていけるのだ。ずっとそう思っていた。

 そいつは学ランを着ていた。胸につけた校章が光っている。見たことのないものだったが、俺と同じ中学生なのかもしれない。

 顔を見てやろうと俺は屈んでいるそいつの顔を覗き込んだ。

 別に顔を確認したからって、どうすることもないのだが、なんとなく、テレビのドラマでよく観る、暴力団の不良少年のようなことをしてみたかったのだ。俺はこのとき思春期の真っ最中であり、近頃の少年にありがちな中二病っぽい面も持っていた。

 芝居じみた仕草で俺は腰に手をやり、そいつの顔を見ようとする。それを見た瞬間、俺は驚愕した。

「な、お前っ……!」

「はは、驚いた? 驚くよねえ、うん」

 口を半開きにして呆然としている俺に向けて、そいつは笑っていた。さっきまでの怯えは表情から完全に消えており、今度は俺が怯える番だった。

「な、何なんだよ、お前……」

「ふふ」

 そいつは気味の悪い笑みを浮かべている。ぞっと寒気がした。

 こんなことってあるのか? おとぎ話じゃなく、現実世界で、こんなことが本当に起こるのか?

 すぐには信じられなかった。嘘だろ、嘘だろ、嘘だろ……。

 街を行き交う人々の声が、やけに遠く聞こえた。さあ、と吹いた風が、俺の頬を撫で、道端に咲いた小さな花をなびかせた。その風は長く吹き続け、俺の思考をも突拍子のない方向へと運ばせているようだった。

 しかし俺は確認できてしまう。これは夢じゃないということを。今ここに起きていることは、紛れもない現実なのだと気づいてしまう。

 俺は今までに経験したことがないくらい、混乱していた。

 だってそいつは。

 俺と全く同じ顔をしていたのだから。


 ―俺は何をしているのだろう。

 混乱が続く頭の中で、俺は自問していた。

 俺は今、とある一軒家の前で住人が出てくるのをおとなしく待っている。片手にシュークリームを1個入れた紙袋を持って。

 普段は平気で人を殴ったり蹴ったりしているのに、今していることはなんだか柄に会わない気が自分でもする。周りから見れば、滑稽にすら思えるかもしれない。

 しかし、仕方がない。金のためだ。

 全部、あの男に頼まれたことだった。俺と同じ顔を持つあの男。

 君に頼みたいことがあるんだ、と気味の悪いあいつは言った。まるで、あらかじめ用意された台本を読み上げているんじゃないかと思うくらい、淀みのない、流暢な口調だった。

「君、僕と顔がそっくりだろ? 声や体格だって似てる。こんなことなかなかないよ。だから僕のふりをして、今から言う人の家に行ってほしいんだ。このシュークリームを土産に持っていってやってね。その人はこれが大好きだから」

 よく意味が分からなかった。何か物事が起こったとき、人は過去の経験とそれを照らし合わせて対処法を考えるが、俺は今の状況に役立ちそうな経験をまだ積んでいなかった。だから俺はこの男が言っていることが、咄嗟にはよく分からなかった。

 一拍置いて目の前の男が言っている内容を理解できたが、今度は急な展開に戸惑った。俺が菓子を持っていく? この男のふりをして?なんて突拍子のない、それでいて怪しげな頼みなのだろう、と思ったが、依頼した本人は、どうやら真剣なようだった。

 なんで俺がそんなことしなくちゃいけないんだ、と俺は珍しく疑問に思ったことを暴力ではなく言葉で聞いた。おそらく、自分と同じ顔の人に出会った混乱がそうさせたのだろう。

 するとそいつはこう答えた。

「嫌だと言われた時のために、お金を用意してあるんだ。報酬として30万円。これでどう?」

 そいつは背負っていたリュックから、札束を取り出した。映画やドラマでしか見たことがないような光景で、俺は一瞬ドキリとする。そいつは周囲に見えないよう、手で覆いながらそれを俺に見せた。

 俺は驚いた。どうして自分と同じくらいの年の奴が、こんな大金を渡せるのだろう。それも俺のような見知らぬ人物に。それほど重要な頼みなのか。

 色々考えるが、俺の中で答えはすぐに決まった。中学生なのだ。目の前の札束を見るとくらくらと気持ちのいいめまいがした。

 浮ついたいた声で、けれど自分では引き締まった声だと思いながら、分かった、と俺は答えた。こいつにどんな事情があるかは知らないが、なにしろこんな大金があってもらわない方が損だ。この金で何ができるか頭の中で考えるのは楽しかった。

「それ、本物なんだろうな」

「ああ、それはもちろん。約束を果たしてくれたら、すぐに渡すよ」

 俺の連絡先も聞かないでどうやってその金を渡すのか、俺はそのとき不覚にも疑問にすら思わなかった。そのくらい思考力が低下してしまうほど、俺は金の誘惑にうっとりとしていたのだ。

 俺が頷くと、そいつはにっこりと微笑んだ。

「ありがとう、引き受けてくれて。本当に嬉しい」

 奴がそう言った時、俺の頭の中を、ふと嫌な予感をかすめた。

 金の誘惑でしばらく頭がぼーっとしていたが、俺の中にある最低限の警戒センサーが反応した。俺は急に自分の声の温度が下がっていくのを感じた。

「……一応聞いておくが、これ、犯罪がらみのことじゃないよな?」

 例えば詐欺の受け子とか。こんな上手い話、普通あるだろうか。

 俺はそいつの顔をじっと見つめた。

 この笑顔の裏に、何かがあるんじゃないか。

 しかしそいつは、ははっ、と軽く笑うだけだった。

「大丈夫だよ。頼みはシュークリームを渡してほしいってことだけなんだから。それにしても君、人と目が合った瞬間に殴りかかってくるような人なのに、こういうところではやけに慎重なんだね」

「……関係ねーだろ」

 自分が暴力的なのは百も承知だ。けれど、精神分析のようなことをされるのはあまり好きではなかった。

 なんだか知らない奴に自分の境地に踏み込まれたようで、嫌な気分だった。俺はシュークリームの入った紙袋をひったくるようにして受け取って、足早に去った。

「僕の名前は蓮だから! くれぐれも、偽物だとバレないようにねー!」

 背から聞こえた声には返事をせずに、俺は立ち去った。


 ―そして今、ここにいる。

 あいつが伝えた家の住所はすぐ近くだった。静かな住宅街にその家はあった。

 なかなか立派な家だと感想を持った。この高さだと3階まであるのかもしれない。

 家の表札には、金田と書いてあった。

 一体、どんな人物が現れるのだろうか。

 チャイムを鳴らす。しばらくしてから、扉の向こうで鍵を開ける音がした。反射的に、体が緊張した。

 金をもらう条件は二つだ。

 ひとつは、このシュークリームを確実にこの家の住民に渡すこと。これは簡単だ。重要なのは二つ目で、蓮と名乗ったあいつの偽物だとバレないようにすることだ。極力目立った言動は避けて、本物でないと悟られない内にさっさと帰ることだ。

 よく考えるとつくづくおかしな頼みだと思うが、とにかくこれさえやれば俺は30万がもらえるのだ。このチャンスを棒に振るわけにはいかない。

 深呼吸をする。

 金のためだ。必ず、絶対に、手に入れてやる。

 ―とりあえず、暴力はしばらく封印した方が良さそうだ。

 「サーセン、お待たせしました。……って」

 出てきた相手は、俺の顔を見た瞬間、なぜか硬直したように固まった。

 中学生くらいの男子だった。客人を出迎えるには相応しくない、だぼっとしたシャツにジーパン姿だ。おそらく蓮の友人だろう。

「お前。……蓮かよ?」

 そう聞かれた瞬間、俺は自分がどう答えるべきか頭をフル稼働させて考えた。

 あいつは男子にしては割と丁寧な口調だった。だから多分、「うん、蓮だよ」と言うのがベストだ。普段の俺だったら「ああ、そうだ」とぶっきらぼうに答えるところだが。

 俺はそのシナリオ通りに答えようとした。しかし俺が口を開くよりも先に、相手の声が響いた。

「うわああああああああああああああ!!」

 悲鳴、というよりも絶叫だった。

 尋常ではない声で、そいつは叫んでいた。それから力が抜けたようにその場に崩れ落ちてしまう。

 そいつは俺の顔を見て言った。

「なんで、お前が……」

 がたがたと歯を鳴らしながら言う。

「なんで蓮が、いるんだよおお!?」

 語尾はほとんど涙交じりだった。うわああああああ、と2度目の悲鳴を上げる。

 ―なぜだ。

 俺は困惑していた。どうして、こんな反応をするんだ?

 頭の中をいくつもの疑問がぐるぐると回った。

 そいつは涙で濡れた顔のまま、俺に向けて叫ぶように言った。

「蓮、蓮、なんで、お前がいるんだよ!?」

 どうしてだ。

 頭の中を、あいつの姿が横切る。

 シュークリームを渡してくれとあいつは言った。確かに変な頼みだと思ったが、あいつ自身はそう変な奴ではないと思ったのに。

 ―一体あいつは、何者なんだ?

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