羽化不全

笹乃秋亜

羽化不全

 華奢な素足を踏み出すと、乾いたタイルにひたりと足の裏が張り付いた。その無機質な冷たさが差し迫るような現実とよく似ていて、今の私に大変似つかわしく思えた。鏡の前に立って顔を上げると、鏡越しに仄暗い瞳の女と目が合った。襟のボタンを幾つか緩く留めているだけ。サイズを違えたシャツは不釣り合いに大きくて、細い体躯をより貧相にさせていた。よれた布の隙間から平たい下腹が覗いて、灰色の下着が浮いた骨盤の出っ張りに辛うじて引っかかっているように見えた。細い腰、薄く張った腹筋。骨に若く柔らかい肉が張り付いているだけの、未熟な、あおい躰だ。優しげに形を整えた眉毛と、櫛で丁寧に撫で付けられた黒髪と、清潔感を装って薄く化粧を施した顔の、いかにも人当たりの良さそうな気弱げなその眦が——心底、大嫌い。

 蛇口を強く捻り上げると、水が一気に噴き出して辺りに飛沫が激しく飛び散った。一刻も早く、目の前の女を消し去りたかった。シャワーヘッドを引ったくって鏡にブチ撒けると、冷たい奔流は鏡面を勢いよく流れ落ちて、醜い女の影は呆気なく呑み込まれてしまった。なのに、ぐらぐらと心臓が宙吊りになっているみたいに気分が落ち着かない。視界が明滅して、呼吸が浅くなっていく。苦しい。ぱつぱつ弾かれた水滴が指先を伝って、袖に暗く滲む。早く、早く。シャワーの飛沫に差し込んだ指先が小刻みに震えていたのは、きっと外が寒かったからに違いない。

 カチリ

 冷え切った掌に熱が弾ける。

 待ち望んだそれは薄い掌一枚じゃ有り余る程に溢れて、澱んで、零れ落ちていった。湿った温もりが匂って、窮屈なバスルームは忽ち白く霞んだ。骨の線が浅く浮き出た裸足を優しく濯ぐ温もりの感触と、立ち込める半透明。深く息を吸い込めば、それは乾いた喉をしっとりと潤して、ゆっくり吐き出される息と一緒に肺胞にどろりと溜った憂鬱が口端から溢れて、首筋を伝って流れ出してゆく。指の震えは止まっていた。

 蛇口を少しだけ捻って勢いを弱める。シャワーフックを高く引き上げて掛け戻せば、仰いだ顔の上から優しく降り掛かる、雨。閉じた瞼の裏側に淡色の世界が透けて視える。湿った柔らかい温もりだけが此処にあって、他には何もない。肌に当たってほろほろと砕ける水滴の感触に——春の柔らかい小雨を一等懐かしく感じて、私は膝から崩れ落ちた。くたりとしゃがみ込んだ上から、心地よい温もりが降り注ぐ。濡れた黒髪がするりと肩から滑り落ちて、水を吸って重たい頭がぐらりと俯いた。抱えるように襟足に這わせた指先が、ゴツゴツと痩せ細った頚椎を辿る。割れた爪が薄い皮膚を掠めて、ちり、と浅く痛みが走った。じっとりと、水気を含んだシャツが皮膚に吸い付く。肘の内側、くしゃりと皺の寄った白に肌色が透けて、溶け合って、混濁する。温い水膜と化したヴェールが生白い裸体を内側に包んで、ぴったりと隙間なく——そう、この塞ぎ込むような密着感を、渇望していた。窒息する勇気が無い者は、溺死に満たない生温い閉塞に興じるしか他に手段を知らないのだ。この雨だけが、髪を優しくすいて痩せた背中をそっと撫で下ろしてくれる唯一の温もりで、救済で、優しく浅ましく締め上げるような加虐で以てのみ、自分の中の何かが慰められるような気がした。

 慈愛の音、憂い、憐憫の色。

 濡れたシャツは白い繭のように私を内包して、自己意識は乳白色の液体に還る。臆病な羽を寛げるように、薄い生地の下で肩甲骨がぬるりと蠢いた。

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羽化不全 笹乃秋亜 @4k1a

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