3

 手綱は呆気なく切れた。


 この近くの湾内に無脊椎動物を追い込んで集め、一網打尽にする計画が持ち上がった。国による、人類を守るための苦肉の策、最後の一手なのだという。仕留めるのは、戸川の役目となった。


「だからさ、俺、行くわな」

「いや行くなよ」


 俺の即座の反応に、戸川は驚いた顔をした後で笑った。


「散々煽っといてここで引き止めんの、意味わかんね」

「だってお前それ、死ぬぞ」

「かもな。でも、絶対に状況は良くなる。なぜなら俺は、やるからだ」

 

 戸川のそれが、単なる自信過剰から発生した命知らずな決意でないことが表情からわかった。嫌な予感がした。

 こんな無茶な最終決戦はない。状況をある程度把握している人間なら誰にだってわかる、自爆レベルの愚策だ。そんなものに巻き込まれて戸川に死なれたら困る。俺はまだ、人類の運命をこの手に握っていたいのだ。

 思考する。どう出れば、戸川の意志を軌道修正できるのか。


「お前単体で複数を相手するのは無理だ。お前は」

「土屋さ。パン、妹がいるって嘘ついて余分にもらってるってあれ、嘘だろ。お前はいつも一個しかもらってない。それを俺に流してる。つまりお前、まともにもの食ってねぇだろ」


 戸川らしからぬ切り返しに身構える。この場面でそこを刺してくる意味。俺の立場を、根本的に揺るがせるため。

 生意気だ。飼い主の言うことも聞かずに勝手に決断して行動するなど、あまりにもお利口じゃない。


「お前だけだったんだよね。背骨合致者に選ばれてからというもの、まともに人間として相手してくれる奴」


 なぜか戸川は異常に落ち着いて喋る。懐かしい思い出を語るかのような口調だ。

 なんなんだ一体。感傷的な発言を投げ込むことで、論理的なやり取りを避ける戦略だろうか。それとも俺の同情心につけ込み、自分への庇護を引き寄せるつもりか。


 戸川が俺に目を向ける。妙に凪いだその目に見られて、俺は自分の思考がわずかにブレるのを自覚する。

 それで気付く。こいつには打算などない。口から出るものすべてが本心だ。まともで愚直なこいつには、高度な駆け引きなどできない。

 俺はそれを知っている。飼い主だからだ。


 戸川は屋上の柵へと一歩踏み出した。その背中がうごめく。体内で背骨が組み上がる音がして、肩甲骨の展開準備が始まる。


「つまりさ、お前はちゃんと食って生きなきゃだめってことだ。俺の分も、うまい肉を食ってくれ」


 黙れ。どうすれば。どうすれば戻ってくる? 奴の決意の、その中心にあるものを、もう一度俺の手元へと引き戻すにはどうすればいい?

 俺の偏屈な野望のすべてを洗いざらい話せば、お前のその英雄気取りの決断がどれだけ馬鹿らしいか理解できるか? 俺はただ人類を手の平の上に載せておくためにお前を利用したのであり、お前は俺の愚かさに気付く必要がある。命を賭して守るほどの価値もないのだと、知ってくれ。

 そのすべてが今の戸川に通用する気がしなかった。思考が絡んで何も言葉にならず、手を摑む。


「行くなよぉ……!」


 唯一吐いた自分のセリフの、その弱々しさに力が抜ける。腹が減り過ぎている。骨が砕けたように、その場に膝を付いてしまう。


「しっかりしろぉ! 俺の最後の希望くらいちゃんと聞け! お前、救世主の友達だろうがよ!」


 戸川が叫ぶ。その後ろで背骨が完全に連結を終え、両翼としての肩甲骨が大きく広がる。終末の空に、それはあまりにもでかかった。

 見上げながら思う。あぁ失敗した。完全に飼い方を間違えた。いつの間にか、誰かを救うためなら死をも恐れない、勇敢な救世主に成長してしまった。


「いいか土屋。絶対うまいカレー食えよ。それまで死ぬな。絶対だ……!」


 腐り切った空気を割いて、戸川は飛んだ。殺して殺して殺して、死んだ。

 そうして人類は救われた。




 結果から言えば、戸川の読みは甘かった。

 あらかた無脊椎動物が消えた後、海が引き、街が姿を現したが酷い惨状だった。こんな所に生き残らされて、ある意味で死より地獄だ。カレーどころじゃない。なにが肉だ。笑うしかない。


 ただ、戸川は一つだけ正解していた。俺は確かに妹の分のパンなどもらっていなかった。でも妹なら本当にいた。もういない。学校へと避難する道の途中で、海に飲まれて死んだ。戸川を屋上で拾う三日前のことだ。

 あそこでぼろぼろの戸川を見つけた時から、助けを求めていたのは俺の方だったのかもしれない。

 

 戸川は確かに人類を救った。でもたった一人、俺だけを救い損ねた。なぜなら俺には今、生きる気力がない。

 どんな建設的な思考も、感情の前に阻まれる。俺は今、寂しくて、悲しい。でもそれもまた間違いではないことを、もう知ってしまっている。単純な感情は、人類をも救うのだ。


 立ち上がってみる。腹の中には何もなく、肉も脂肪も消え失せた。でも骨が、内側から俺の体を支えているのがわかる。

 それはちゃんと重いのだった。戸川から託されたものの重さだ、と思った。

 勘弁してくれよ、と声に出して笑う。


〈了〉

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正しい救世主の飼い方 古川 @Mckinney

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