第3話

 いつの間にか、私は小太郎の家の座布団の上に寝かされていた。起きたときは、もう夜中だった。小太郎も、六畳間に敷かれた布団に寝ている。私はつまらなく思いながら、台所に用意されているいつもの食事ー魚のアラに野菜くずを混ぜたものーを食べ、身づくろいをして、小太郎の寝顔を眺めるために、小太郎の布団にもぐりこんだ。すると、寝ていたはずの小太郎が、私の頭をなでてくれた。私は、それだけで幸せで、満ち足りた気持ちになる。

 朝、まだ寝入っている小太郎の毛づくろいをするのが、私は好きだった。短い、固い毛を、舌で丁寧に整える。しばらくすると、ぐっすり寝ていた小太郎が、身じろぎをして、私の体をまさぐる。小太郎に触れられたのがうれしくて、喉を鳴らしてすり寄ると、小太郎は寝ぼけ眼でゆっくりと瞬きをしてくれる。私は、このうえない幸せな気持ちで、目を閉じ、小太郎にくっついてまあるく眠るのだ。けれど、いつのころからか、小太郎の髪の毛がなくなってしまった。肌の色がむき出しで、短い毛がちくちく生えているだけで、毛づくろいすることができなくなってしまった。

 同じころ、小太郎は外は危ないからと言って、私を外に出したがらくなった。窓の隙間から、生き物の死臭が漂うことがたびたびあったので、小太郎のいうとおり、外で何か不穏なことが起こっているらしかった。毎日のように、警報が鳴り響き、大地が揺れた。すると、小太郎は私を抱きかかえて、一緒に押し入れに閉じこもるので、私はその時間が好きだった。小太郎の腕に抱きしめられていれば、私はいつでもほんとうの安らぎを感じられた。

 深夜、けたたましい警報が鳴り、ぐっすり寝ていた小太郎が飛び起きて素早く私を抱きかかえると、押し入れに飛び込んだ。私は、寝ぼけまなこで、小太郎の腕のあたたかさを感じ、幸福なまどろみのなかにいた。けれど、爆音とともにまっくらの押し入れにさし込んだ強い光が、小太郎の暗い、険しい、苦悩に満ちた顔を照らし出し、私は夢から覚めたような心地になった。さいきんの小太郎は、食事の量が減って、やつれ、考え込むことが多くなっていた。屋根裏でネズミを見つけて捕まえてきても「お前がお食べ」と苦笑して受け取ってはくれなかった。私が小太郎にしてあげられることは、何一つなかった。けたたましい音と光とともに、がたがたと押し入れが揺れた。目を見開き、歯を食いしばっている小太郎を見上げながら、私は小太郎の心の安らぎを痛いくらいに求めていた。

 「ほら、お別れだよ。あちらに行くのが、お前にとって、きっと幸せなんだよ。どうか、強く生き延びて」

 そう、泣きそうに顔をゆがめた小太郎に、田舎に引っ越す母娘のもとに預けられてから、8年という月日が過ぎた。

 小太郎と過ごした夢のような幸福な時間が、幻のように遠く思えるけれど、そのころの思いは、私のなかに色濃く思っていた。新しく家族になった母娘は、貧しいながらよくしてくれたが、私のなかの熱情はただ小太郎にだけ向けられていた。

 引っ越した先には、仕事帰りの小太郎を待っていた、あの公園によく似た白いベンチがある並木道があった。そこには、桜の大木が並んでおり、春になると、壮麗な景色となった。私は、小太郎を待っていたころを思い出して、よくそのベンチで眠った。

 その日は春の盛りで、並木道の桜は満開に咲き誇り、夜の闇の中であやしく白んでいた。風が起こり、ざあっと雨が降り出し、はらりはらりと舞っていた桜の花びらが、勢いをつけ、次から次へと舞い落ちた。私は、いつものようにベンチに飛び乗ろうとしたが、自分にそんな力が残されていないことを知った。諦めて、ベンチの影に身を丸めた。雨と桜がベンチの隙間から、私の体に落ちてきた。ざあざあという雨の激しい音、滴の冷たさ、すべてが遠のいていった。薄れゆく意識のなか、私は、ただひたすらに小太郎のことを思っていた。

 自分の残り時間がわずかだということを、私は感じていた。小太郎が、どこかで、ほんとうの安らぎのなかで生きていますように、と私は願っていた。途切れゆく意識のなか、切実に願っていた。死がすぐそばまで差し迫ってきているのに、私の心の激情だけは確かな息吹を放っていた。小太郎を抱きしめてあげられる腕が私にあったなら………。

 「こんなところで寝ていたら、風邪をひきますよ」

 誰かが、肩をゆすぶった。いつの間にか、眠ってしまっていたようだ。私は、寒さに体を震わした。

「大丈夫ですか?」

 ぼんやりしていた私を覗き込むように、犬を連れた優しそうな老婦人が立っていた。

「ああ、すみません。大丈夫です。ありがとうございます」

 私は、慌てて言葉を重ねた。ひきつった愛想笑いてわ答えた私を、老婦人は訝しげな顔で見つめている。泣きはらしたひどい顔をしているからだろうと、無意識に顔をぬぐった。

 老婦人は、遠慮がちに私の肩に触れると、「あら、やっぱり濡れてるわ。おかしいわね。通り雨かしら、これじゃあ、ほんとうに風邪をひきますよ」と、心配そうに眉をひそめた。

 私は、自分の肩に触れ、その雨の名残を撫でた。体は凍えそうに冷え切っていたけれど、心の中にあたたかなものが広がった。老婦人に心を込めてお礼を伝え、公園を後にした。見知らぬ街は、傾きかけの日の光を浴びて、きらきらと輝いて見えた。薄紫色を帯びた、空のうつくしさに、私は目を細めた。さあっと風が吹き、髪が揺れ、薄紅色のひかりが、ひらひらと通りに落ちていった。

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春の夢 みのり @oozr_minori

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