二人のエピソード

文川

彼女はなぜ、泣いたか

1

 午後四時の陽射しは、夏の色を含み始めていて明るい。朝から降り続ける細い雨が、その陽射しに洗われてやわらかに窓を光らせている。


 降る雨を追えば、雲間くもまを貫く陽の光が窓を越えて、そばに立つ女子生徒の目を浅く刺した。光の残影をまばたきで払い、廊下に目を移すと、人の姿はまばらで、数人残っていた生徒たちもやがて階段の方へと消え、廊下には女子生徒――八上やがみ智恵子ちえこだけが残った。


 智恵子は一人だけの時間を、雲を眺めて過ごした。もうすぐ、待ち人が来る頃だった。


 奥にある二組の教室から、荷物を抱えて飛び出してきた女子生徒が、智恵子の姿を見るなり大きな声で、ごめん、と言った。早歩きで近づいてくるその女子生徒を、智恵子は待った。


「ごめんね、八上さん、待ったよね?」

「大丈夫。そんなに待ってないよ」


 並んで歩き出した二人の足は、六組側の階段に向いている。遠いざわめきが、階下より二人の元へと届いている。


川瀬かわせさんは、部活、いいの?」

「昼休みに先輩に言っておいたから。生徒会の仕事だしね」

「そっか」


 濡れて光る階段のふちに視線を置きながら、智恵子が続けた。


「今日は運動部も中なのかな」

「どうだろう。学校の周りを走るんじゃない? 外、小雨だし」

「そうか。これぐらいの雨なら、走るんだ」

「走る走る」


 よいしょ、と言って、立ち止まって荷物を持ち直した川瀬が、智恵子より先に階段を降り始めた。


「少し、急いでもいい? 小山こやまくんと脇坂わきさかくん、私のせいで待たせちゃってると思うから。もう、いるよね」

「そうだね。二人ともいると思う」


 高い窓から落ちる光はゆかまで届かず、階段に冷えびえとした暗さを投げている。濡れた階段を二人が降りていると、部活着のまま、急いでのぼってくる女子生徒と行きあった。


「あ、よかった。八上さん」

「どうしたの?」

「教室、もう閉めたよね?」

「うん」

「ごめん、少しだけ、教室けてくれない? 忘れ物しちゃって」

「忘れ物?」

「ヘアゴム。多分、教室の中に置いてきちゃって」


 テニスラケットを脇に抱えたまま、手ぐしで濡れた髪をほどきながら、女子生徒がそう言った。


「ポケットの中は?」

「え?」

「そういうの、スコートっていうんだっけ。それって、ポケットついてるよね?」

「ついてるけど……あ。あった」


 女子生徒の手の上には、紺色のヘアゴムが二つ、絡んだ状態で乗っている。視線がヘアゴムと智恵子を二度、往復した。


「私……教室にあるって思い込んでた。どうして分かったの?」

「んー。そうじゃないかなって」


 そう言った智恵子に、女子生徒は戸惑ったようだった。智恵子が続けた。


「教室、開けなくても大丈夫?」

「あ、うん。ありがと。大丈夫。じゃあ、戻るね」


 戸惑った様子のまま、階段を降りていく女子生徒の姿が見えなくなり、しばらくして、階段を降りながら川瀬が智恵子に尋ねた。


「どうして、ポケットの中だって思ったの?」

「えー。なんでだろう。なんとなく、かな。ポケット、確認してないのかなぁって」

「八上さんって、いつも、なんとなくでいろんなこと、わかっちゃうよね」

「そうかな」


 何かを思い出そうとしているのか、智恵子は階段を降りる速度を緩め、それに合わせて川瀬の歩みもゆっくりになった。


「たぶん、朝、みかけたとき、髪をほどいたあとだったから」

「朝?」

「今日、朝練があったんでしょう? 運動部」

「あった」

「いつもは、教室に戻ってきてから、髪をほどいてるから。うん、だから、部活のウェアの時に、髪をほどいたのかなって」

「それで、スコートのポケットって言ったの?」

「うーん、たぶん」


 たぶんなんだ、と言った川瀬は、笑ったあと、少し、考え込んだようだった。


「よく覚えてるね、そんなこと」

「私、朝、一番だから。教室に入るの。それで、来るみんなの姿をなんとなく見てるうちに、絵みたいに頭の中に残るの……かなぁ」

「写真記憶っていうんだっけ? そういうの」

「そんな、すごそうなものじゃないよ。ただ、ぼーっとしてるだけだから」

「ぼーっとしてるようには、見えないけどなー」


 智恵子は、やわく笑っただけだった。

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