変態

横谷 タクミ

変態

あの男には見覚えがあった。

それは、通りを挟んだ向かいのビルの二階、眺めるだけでその油臭さが想起させられるファーストフード店で--何も油臭さは悪いものだと言いつけたいわけではない。時として、つまり腹がすいているときでさえあれば、その香りはかぐわしい、病的なまでに。--紙包みを片手に一応はたたえつつ、かぶりつくように何かを、書き殴り、続けている一人の男である。


たまたまちらりとその必死な形相が目に入ったもので、少しいぶかしんでみるとそれはただまれにみる必死さだけでは説明しがたいほどの何か僕の胸に残るところがあり思い返してみれば昨年の同じころにも、こうしてこのビルに商談に来た時のこと。

空腹に耐えかねて、妻には子供に与えたくないからと自分まで禁止された、あのファーストフード店に立ち寄ったのだ。自分も足しげく通っていたわけではないが、学生時代、仲良くしてくれていた気さくな一人の男に連れられ、幾度か食べに入った思い出のおかげで、そこらのよく知らぬ店よりは愛着はあった。


よくわからないまま適当に人気そうな商品を選び、懐かしい香りに惑わされながらついた席の隣には、その店には少し似合わない、上等そうなスーツに鈍く品良く輝く革靴とオールバックに纏められた高級車のような艶やかな黒髪が印象的な男が何やら、その時も必死に、書き殴り続けていた。


「どうかされましたか。ああ、いえ。わかります。このような場所でテスト前の中高生のように勉学に励む大人は少しいえ、かなりおかしなものですよね」

私が突然話しかけられたことに反応する間もないほど勝手に話しかけてきては勝手に解決し、彼は机に向かいなおした。

「いえ、すみませんね。」

それだけ謝罪し、私を思い出させるかのように鳴る腹をなだめ始める。

うん。何ら変わらない濃口の味わいの懐かしさゆえの安堵感と、そのパンチの良さによってか謎の焦燥感を感じた。


「私はね、教員免許を取得したいのですよ」

彼は唐突に語り始める。

「私はまだ蛹だ。いや、もしかしたら蛹ですらなく地べたを醜く這いずり回るだけの毒虫なのかもしれない。しかし、私は信じているのですよ。いずれこの僕も、美しい羽根を自慢げに揺らめかせ、世界に彩を振りまきながら羽ばたく日が来るのだとね。だから、これ以上輝く私のためにできるだけ身なりを整え、変態していくためだけのエネルギーを蓄えるべく食事と勉学に励むのです。」


「そうですか。」

私はカフカの変身を思い出していた。彼の毒虫という表現か、いやそもそも上等な恰好をわざわざして、人々が気楽に訪れるこのようなファーストフード店で見知らぬ男に聞いてもいない夢の話をまくしたてるこの異常さに、私はすっかり面食らっていた。

夢を語られたにしてはわずかにも燃えていない私の返事を気にも留めず勉強に励む彼を横目に、今や味のことなど考える余裕もなくトレーに乗る食物を次々と口に詰め込むと、横の人物に目を向けないよう細心の注意を払いながらその席を後にしたのである。


その彼は、一年たった今も同じ店で、同じような恰好で机にかじりついていた。

彼はすでに。

いや、そもそも人間とは蝶のような変態をする生物ではない。つまりは、彼はこれから何か劇的な変化が起こるわけではなく、だからこそ、今向こうで無意味に、あえてここで臆することなくいわせてもらうが、そう無意味に勉学に励んでいる。変わらぬその彼自体がその証拠なのだ。だから私も変わらずここで商談をし、その後腹を空かせるのだろう。彼と関りを持ちたいなどともちろん私は思えなかったが、彼の何も変わらない姿にはある種の、私とは同じ世界にいるはずなのに遠すぎる何かで生きている、超越性、愛おしさ、憧れに近いようなふわふわとした気持ちの片鱗が見えたことに驚いてもいた。

「あ~、お疲れ様です。どうですか、これから少し飲みにでも」

書類の確認が済んだのか、すっきりとした面持ちと声音で取引先の小太りな男が提案してきた。

変わらないことの証人となった彼を背に、わたしは人間はわずかな変化ならば起こせることを見せることにした。とはいえ、ここで刺激的な道を、彼の横で食事をするふりをしながら、彼のことを眺めてみるこ道こそが、わずかな変化を生むのかもしれないと感じたが、そのような変化は悪化であるとして、やはり踵を返すのであった。

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変態 横谷 タクミ @TK_yo_ko_

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