Act.3
短い夏が終わり、束の間の秋が訪れた。陽射しは柔らかな金色で、西風は涼しく乾いている。
広い書斎に射し込む朝陽を、青年が、
「クロセ」
高い本棚を背に、青年が由に向き直る。涼やかな切れ長の目。青みがかった淡い灰色の瞳は、怜悧な光を宿している。
「二年間、僕の補佐を、よく務めてくれたね」
ありがとう、おつかれさま。そう言って、青年は由に微笑みかけた。
「改めて、昇格おめでとう。今日から、君も、僕と同じ《
「……ありがとうございます」
心からの笑顔は、どうしても描けなかった。そんな由に、青年は、微かに苦笑の色を浮かべる。
「怖いかい?」
優しく肯定する、深く穏やかな声。由は唇を引き結び、答えを
青年のまなざしに、どこか懐かしむような色が宿る。
「……《
軽く首を傾け、由と目線を合わせる。青年の銀の髪が、白い頬に、さらりと淡い影を落とす。
「そういう意味では、第九機関は、たいしたことのない組織とも言えるね」
「……《
「シラノで良いよ。君は、もう僕の補佐ではないのだから」
そう言って、青年――シラノは、片目を
「僕が、元々は《
ハニートラップ専門の男娼だったことも。
「……はい」
暗殺を主な任務とする《
「そう。僕は、人の心に入り込むのが、ほんの少しだけ上手だったんだ」
《
シラノは続ける。由の背中を、そっと押すように。
「君も、僕も、そして他の《
シラノは微笑んだ。
「エリート、カリスマ、天才……僕たちが相対するのは、そういう人間たちだろう。でも……闘わなければ、僕たちは世界に殺される」
シラノの言葉の最後は、扉をノックする音に重なった。シラノの《
「時間だね」
シラノが促す。由は唇を引き結び、頷いた。右肩で束ねた髪が、さらりと流れる。最初は着慣れなかった黒のスリーピース・スーツは、この二年の間に、すっかり身に馴染んでいた。
「……シラノさん」
扉に手を掛けたところで、由は最後に、シラノに尋ねた。
「……《
震えないように、努めて大人びて抑えた、十七歳の声だった。シラノは、そっと目を伏せる。
「……僕の答えも、君と同じだよ」
「《
「《
でも……と、そこでシラノは視線を上げ、由を見つめた。
「《
その言葉は、シラノからの餞別だった。
邸の玄関を出て、アプローチに下りる。庭を囲む鉄柵の門が開き、黒いスーツ姿の少年が入ってきた。すらりと伸びた手足。華奢だけれど、かっしりとした、背の高い体躯。でも、まだ、由より小柄だ。秋風に揺れる真直ぐな短い黒髪と、白い頬のコントラストが、朝の光の中で眩しい。
「……永……」
二年振りに呼ぶ、弟の名前だった。
「兄さん!」
駆けてくる。ぱっと華やいだ笑顔で、何の陰もない瞳で由を見つめて。
嬉しくてたまらないのだと分かる。伝わってくる。
自分だって、嬉しい。無事に再会することができた。離れていた二年のあいだ、生き延びていてくれた。嬉しい。うれしいよ。なのに……どうして自分は、上手く微笑むことができないのだろう。
飛びつく勢いで、弟は由を抱きしめた。そろそろと、由も弟の背に腕を回して、抱きとめる。
「……会いたかった……兄さん……」
「……俺も、会いたかったよ」
その言葉は嘘じゃない。再会を喜ぶ心も偽りじゃない。
なのに……どうして、こんなにも、かなしいのだろう。
なぁ、永、お前は、分かっているのか?
兄の《
兄を守るということが、何を意味するのか。
「……永……」
「……守れなくて、ごめん……永……」
「兄さん?」
聞き返した弟に、緩く首を横に振る。
抱きしめている弟に、今の自分の顔は見えないだろう。見られなくて良かった。どうか、今は、見ないで。笑顔とは程遠い表情しか、描くことができずにいるから。
「……やっと、追いついたよ、兄さん」
ぎゅっと、腕に力を込めて、弟は言った。
「これからは、俺が、兄さんを守るから……何があっても、誰が相手でも、絶対に死なせないから……生かしてみせるから……」
「これからは、ずっと一緒だよ、兄さん」
兄さん――その言葉が、由の胸に突き刺さる。やめてくれと、叫びたかった。
守るために、何をする?
死なせないために、生かすために。
俺が生きれば生きるほど、お前は、その手で――
弟に人を殺させて生きる兄なんて、もう兄とは呼べないよ、永。
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