Act.4
湿気を含んだ初夏の夜風が、街外れの廃倉庫を吹き抜ける。錆びついたトタンがカタカタと音を立て、月明かりに照らされた
床にはオイルが
倉庫の奥。壊れたコンテナや
「いらっしゃるのでしょう。開けていただけませんか」
簡素な扉だ。その気になれば、
「……誰?」
扉越しに、緊張に震える声で、相手が尋ねた。若い女性の声だった。
「貴女の身柄を保護するために来た者です。……正確には、貴女と、貴女が抱えている文書を」
「私を保護? 殺害の間違いでしょう」
女性は蔑むように笑った。永の眉が、僅かに寄る。対して兄は表情を変えずに、穏やかな口調で続けた。
「今この場で俺たちを信じていただくのは難しいでしょう。扉を無理やり開けないのが証拠だとも言えますが、それでは、あまりに弱い。なので、これから、貴女に、判断材料を、ひとつ示します」
「……判断材料?」
「はい。……間もなく、ここに、貴女を追っている〝悪い奴ら〟が来ます。それを俺たちが迎撃し、貴女を無事に逃がしましょう」
兄は微笑んだ。数秒の沈黙。
「兄さん」
銃を構え、永は外の気配に集中する。車の音が近づいてくる。一、二……三台。
永を振り返り、兄は小さく頷いた。
「最後に、ひとつだけ。……頼ることも、勇気ですよ」
それだけ言って、兄は扉に背を向けた。銃を手に、永の隣に並ぶ。
外には《
「……撃つから、下がって、兄さん」
「永……」
コンテナの陰に身を潜め、永は、兄の前に出る。《
撃たせないよ、兄さん。全部、俺が撃つ。
銃声が重なり合って響いていく。数を減らしながら、それでも少しずつこちらに迫ってくる。大丈夫。想定通りの人数だ。兄の計画に、綻びはない。
「俺に任せて、兄さん」
笑顔を置き、永は床を蹴る。混戦を避けるためか、《
目についた人影に、永は片端からトリガを引いていく。永にとって、世界は至極、単純だった。兄か、兄以外か。永の世界には、その二種類しかいない。もうずっと、そうだった。幼い頃から、ずっと。過去の延長線上に今があるだけ。かつて、永を守ってくれたのは、兄だけだった。そして今、永は、兄だけを守る。守るつもりでいる。兄を害する世界の全てから。あるいは世界そのものから。
数分後。倉庫の外からも、中からも、一発の銃声も聞こえなくなった。
「終わったよ」
最後の一人が死体になったのを冷ややかに一瞥して、永は振り返って微笑むと、兄のもとへ戻った。兄の表情は少し硬かったけれど、それでも永の笑顔を受けて、小さく笑みを返してくれた。
「永……」
兄の手が、そっと、永の頬に伸ばされる。気づいた永は
「もう大丈夫です。出てきてくれませんか」
事務所のドアを、再び叩く。今度は沈黙を置かずに、それは開いた。短い赤毛の女性だった。
「……貴方たちは……一体……」
胸に厚い書類ケースを抱え、驚愕と当惑と緊張、そして恐怖が混じった瞳で、兄を見上げる。そんな女性に、兄は、にこりと微笑みかけた。
「正義の味方です」
「えっ……?」
女性が、ぱちりと大きく瞬きをする。その瞳を覆っていた恐怖と緊張が、ふっと霧散していくのが見えた。
兄は穏やかな口調で続ける。
「貴女が手に入れた、その文書は……貴女の正義に基づいて、この国に公表されるべきものです。だから、俺たちに、貴女と文書を保護させていただきたい」
安全な場所へ、貴女を案内しましょう。
「……分かったわ」
警戒しながらも、女性は事務所を出て、兄の後ろに続いた。倉庫の裏に、彼女を
「ここに撒かれているオイルは、貴女が……」
倉庫の出入り口へと歩きながら、兄が、ふと、女性に話しかけた。
「ええ。あいつらが来て、いざとなったら、火を点けるつもりだったの」
「そうですか。では、なおのこと、俺たちが間に合って良かったです」
ここは、貴女のご両親が経営していた倉庫でしょう。
「焼かずに済んで良かった」
横たわる死体を越え、外に出る。《
「おつかれさま」
任務の終了を告げる。《
「俺たちも……」
行こう、と促そうとした永の脇をすり抜けて、兄は、静かに、横たわる〝敵〟の一人のもとへと歩いていった。小柄な男で、唯一、まだ息がある。
「質問だ」
男を見下ろし、兄が問う。ぞっとするほど、冷ややかな声だった。
「俺たちが、ここへ来るという情報、誰から聞いた?」
ナイフを取り出し、男に向ける。男の喉から、小さく上擦った悲鳴が漏れた。
「……兄さん……?」
兄の後ろで、永は戸惑いの瞬きをする。思えば、今回の兄の計画には、不思議に思うところがあった。普通ならば、保護対象を確保する任務に《
しかも、《
「……まさか……」
永は瞠目する。兄は静かに、男への尋問を続けていた。
「嘘は吐きたくないから、答えれば助けてあげるとは言わない。ただ、その傷では、死ぬまでにまだ時間がある。答えなければ、貴方は確定した死の上に、更なる苦痛が
そう言って、ナイフの先を、男の眼球に近づけた。
「しっ……知らない……! 名前は……っ、聞かされていないんだ……!」
兄の瞳が静かに瞬きを打った。
「では、さっき、倉庫の外で応戦した中に、その人物はいたか?」
兄の手は動かない。ぴたりと、相手に恐怖を突きつけたままだ。
「い、いた……! 金髪の奴だった!」
「そう。配置は? 向かって右と左、どちらにいたほう?」
兄の後ろで、永はごくりと唾を飲み込む。
兄の計画は、いつも緻密だ。今回も、《
「右だ! 右にいたよ! すぐに展開したが、最初は、そこにいた!」
「……分かった」
ナイフを離す。男が安堵の息をついたのも束の間、兄はそのまま、ナイフを男の首に押し当てる。明確な殺意をもって、力を込める。だが――
男の口を封じたのは、銃弾だった。兄の後ろから放たれた、永の銃だった。
「……永」
「行こう。警察が聞きつけて来たら、面倒だ」
《
「いつから疑っていたの。内通者がいるって」
「計画を実行する少し前だよ。この場所を彼らが突き止めるタイミングが、あまりにも良すぎたからね」
車に向かいながら、小声で言葉を交わす。
「だから、あの女性を保護する場所は、事前に誰にも教えなかったし、担当する《
彼女について調べたレポートを思い出す。彼女が所持していた文書は、或る麻薬組織と繋がりのある政界の重鎮の名簿だった。その組織は、麻薬の輸送に、彼女の両親が営む倉庫を使おうとした。けれど、彼女の両親は拒否し、逆に告発しようとした。しかし、相手の権力に潰され、彼女は両親を喪うことになった。あの文書は、彼女が両親の無念を晴らすため、死に物狂いで手に入れたものだ。
「メディアにも、政界に尻尾を振る連中はいるだろ。握り潰すように圧力をかける政治家が何人も出てくるのは、目に見えてる」
「そのときは、また俺たちが動けば良い」
兄は微笑む。
「告発は、ひとつの
しばらく忙しくなりそうだ、と兄は小さく息をついた。これから、本来の仕事をこなしながら、今回明らかになった内通者の存在も対処しなくてはならない。その内通者も、一人ではない可能性もある。
「……許せないよ。兄さんを裏切るなんて……」
永の
「それについては、お前にひとつ、頼みたいことがある」
《
「それは、兄さんの命が保証された上での話?」
「そうだな。死ぬことはないと思う」
「そう。なら、いくらでも協力する」
「ありがとう」
また話すよ、と兄は微笑んで、視線を前に戻した。
《
兄の隣を歩きながら、永は、そっと、兄の横顔を見る。
永が撃ったのは、汚したくなかったからだ。美しい兄の手を、汚い血に染めたくなかった。
夏の夜風が、兄の髪を、さらりと揺らす。胸元に届く長い髪を、兄は右肩の上で、緩く束ねていた。それは、どこか、ふたりで生きた時間そのものの長さに思えた。引き寄せられるように、永の手が、兄の髪に伸びる。けれど、その指先が届く前に、永はその手を、ぐっと握り込んで抑えた。
誰にも、何にも、兄を汚されたくない。
汚したくない。
兄と永が《
兄は二十一、永は十八になっていた。
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