蔵と鬼

篠目薊

第1話

 知ってる?あの、街のハズレにあるデカい蔵のこと。


 蔵?蔵というより『ボロ屋敷』、だろ?


 そんなの、この際どうでもいいよ。大事なのは内容だ。


 で?それがどうかしたのか?


 その蔵についての噂は知ってるか?


 噂?あの、古臭い蔵にか?いかにも江戸時代からありますみたいな雰囲気はあるけどな。噂は聞いたことが……。


 一つも無い?本当に?


 いやちょっと待て。街のハズレの……カミチ川の近くの……蔵……だよな?


 そうそれ。


 一つだけ、噂話を知ってる。


 ほんと?俺の知ってる噂話と答え合わせしようぜ。


 ああいや、俺が知ってんのは一つだって。


 まあまあ、別にいいからさ、お前の知ってる話を教えてよ。


 笑うなよ。


 笑わねぇよ。


 その、鬼が……ジンドンキが、出るって……


 人呑鬼、な。なんでか知らんけど、地獄八景亡者戯の人呑鬼と同じなんだよな。


 じごくばっけい……? なんでお前がそんなもん知ってんだよ。


 俺のじいちゃんが落語好きだからだよ。それに件の蔵と地獄八景亡者戯とはなんの関係もない。強いていうなら、その噂の化け物と名前が一緒ってだけだ。


 その噂が、どうかしたのか?


 お前、知らないの?


 何がだよ?


 あそこ、よく人がいなくなんだよ。


 は?


 だから、人がいなくなるの。


 え?どういう……。


 あそこら辺……蔵の辺り、カミチ川の近くを彷徨いてた奴らがさ、急にいなくなるの。誘拐?かどうか分かんないけど、よく事件になってたじゃん。新聞にも小さく取り上げられたこともあったしさ。


 そうなのか……?


 もう五年くらい前かな。お前、覚えてないの?


 あんまり……。


 そっか。でさ、この誘拐事件、薄っ気味悪いんだよな。女ばっかし狙われてんの。お前、妹いたよな。気をつけねぇと。


 は?女ばかり?


 そう。しかも、攫われた奴らみんな二十歳以下だ。アクシツだろ?


 どこの下衆野郎だよ。犯人は?見つかったのか?


 犯人は、。


 うん。


 …………人呑鬼。


 ……は?


 だから、人呑鬼。


 ……え?いや待て、冗談は……。


 冗談だよ。


 おい!


 ははは、信じるんじゃねえぞ。人呑鬼なんかいるわけねーだろ、落語の話だよ落語。いつからか分からないけど、人がいなくなるようになってから、誰が引っ張り出してきたんだか、犯人が人を喰う「人呑鬼」って噂が流れてきたんだよな。


 くっだらねぇ。で、この話のオチは?なんかあるんだろ?まさか「お前の妹気をつけろ」がオチじゃねぇだろ?


 あるよ、とっておきのオチが。落語だけにね。


 つまんねぇな。はぐらかすんじゃねえよ。……何がオチだ?


 見つかったんだよ。


 は?誘拐された人達がか?


 違う。蔵の持ち主が、だ。


 ……それがオチ?


 そう。


 いや、つまらなすぎるだろ!誘拐でそのハンニンがジンドンキだって話まではいいよ、だけど結局蔵の持ち主の話かよ!今までの話なんだったんだよ!


 落ち着けって。ただのオチじゃないんだから。なんと、その蔵の鍵の持ち主が分かったんだ!


 また持ち主かよ。どうせその近辺に住んでるじいさんとかだろ。


 違う。


 じゃ、ばあさんか。


 それも、違う。このクラスの生徒が持ち主だ。


 へぇこのクラスの…………このクラスの⁉︎


 そう。とっておきのオチ……


 オチとか言うのやめろ。


 なんだよ、つまんねぇな。


 お前が言うな。


 まあそれは置いといて。クラスにさ、メシキってやついるじゃん。


 ああ、前の方に座ってる女子だよな。俺話したことねぇけど。


 そいつが、蔵の鍵を持ってる。


 あいつがか?あの蔵の近くに住んでんのか。


 そうみたいよ。


 あいつ、なんか怖いんだよな。雰囲気というか、纏ってるオーラというか。


 分かる。近寄り難いっていうか……。それになんか変わった名前だよな。確かあれが名字で……下の名前は……。あれ?お前知ってる?


 俺も……思い出そうとしたんだけど……思い出せねぇ。あああ、なんか気持ち悪りぃなあ!いつもクラスにいるのに、名前が名字しか思い出せねぇ!


 クラス名簿見に行くか?


 いや、いい。面倒くさいしな。それに、すでにチャイムがなったぜ?もうすぐ授業が始まる…………





 ウン。ウン……へぇ、そうなの。それで?……そう。クラスの男の子達が私の話をしていたから、興味が湧いてここまで来ちゃったのね。え?私の後を付けてきたの?ごめんなさいってそんな、謝るほどじゃないわよ。でも、せっかくここまできてもらって悪いけど、ここには本当に何も無いのよ?あるのは私の家と、カミチ川と、あの噂されてる蔵だけ。え?でも、噂話が本当かだけは知りたい?人呑鬼の話よね?……いいわよ。でも、どうせならあの蔵の中で話をしない?ちょうどいいムードが出るでしょ。ああ、安心して、蔵は私が定期的に掃除してるから。ホコリひとつないわ。綺麗よ、中は。ふふ、外見はとても酷いけれどね。えぇ、そうよ。蔵の鍵は、私が持ってるの。さあ、行きましょ?


 ここが、蔵の中。結構、明るいでしょう?……あら、怖がっているの?怖くないわ、ここはただの蔵……物置だもの。もしかして、こんなに大きな物置小屋に入るのは初めて?ごめんなさいね、掃除はしてるけれど、電気はここには通って無いのよ。出口を閉ざすと真っ暗。ね、いいムードでしょ?でも、万一のために灯り取りの窓はあるのよ。ほら、ここ。小さいけど、さっきより、幾分か明るくなったわね。どうせなら、二階に行きましょう。二階?あるわよ。ほら、ここに階段が……二階が作れるくらい大きな蔵に入ったことない?昔の蔵なんて、みんなそんな物よ。足元が暗いから、気をつけてね。


 思っていたより、二階もしっかりしているでしょう。ここでダンスしたって、床が抜けることなんてありゃしないわ。安心して。あなたと二人で暴れても、びくともしないわ。音があまり外に響かないからね。お歌の練習だってできるのよ。色々、便利でしょう。……何がって……そのうち分かるわ。

 じゃあ、始めるわよ。


 人呑鬼の、話。


 この近くには、川が流れているでしょう。そんなに大きな川じゃないわね。でも、水の流れは今まで、絶えたことがない。弱くともしっかりと、水が流れている。昔は、もっと大きな川だったのよ。この川の、名前を知ってる?……そう、カミチ川よ。今じゃ、神様の神道って書いて神道(カミチ)川って読ませているけれど、昔は違ったのよ。神の道……神様の通る道なんて、一体誰が付けたんでしょうね。笑えないわ。昔はね、全然違う名前がついていたのよ。読みは一緒だけど、漢字が違うの。知りたい?えぇ、そうよね。それが知りたくて来たんだものね。

 

 いい?昔は、カミチ川は、髪の毛の“髪”っていう字に、ち……赤い、“血”という漢字が当てられていたの。そう、あなたの身体中を流れる、血、よ。それで、『髪血川』。


 あら、デタラメだって?いやぁねえ、これは正真正銘、本当の話よ。由来、知りたい?……分かったわ、そこから話すことにしましょう。長くなるわよ……そういえば、あなたの名前は?ごめんなさい、同じクラスにいるのに……私、あなたの名前が分からないわ。私の名前は、メシキというの。もう知ってるの?ふふ、嬉しいわね。あなたは……サクラ、さん?サクラさんというのね。分かったわ。最後に、一人でも同じクラスの人と話せて良かった。…………私、もうすぐこの街からいなくなるの。あの学校からもいなくなるわ。親の転勤?いいえ、違うわ。まあ、理由はどんな風に取ってもらっても結構よ。私、家族の話は少ししづらい立場にいるの。分かってくれる?……何よ、謝ることじゃないのよ。

 それで、どこまで話したかしら……ああ、あの髪血川のところまでよね?由来は、まだ話してなかったわね。それでは、話して行きましょうか。

 髪血川の、名前の由来を。

 

 昔……といっても、ほんの少しとかの昔じゃ無いわ。江戸時代くらいかしら、ここには本当に鬼がいたの。信じるか信じないかは勝手にして。私は勿論、信じているわ……いいえ、信じざるを得ないというか……あら、あなたも信じてくれるのね、嬉しいわ。鬼は、ここ、この髪血川の近くに棲んでいたの。その鬼は、「泣いた赤鬼」の様に優しい、いい鬼では無かったの。そう、決していい鬼では無かった。何故なら、ひとを、たくさん、たべたから。それも、二十歳以下の、若い女の人ばかりね。よく、女の人は男の人より精気があって美味しいって言うじゃない。何故なんだろう……やはり、女性には男性にない特別なことが多くあったから、その分精気が……沢山放出されていたんじゃないかしら。鬼は、人間の精気を食べて、生きていたの。じゃあ、人から放出される精気だけを食べれば良かったじゃないかって?ふふ、それが、そこには理由があるのよ。女の人だけ食べる様になってしまったのにも勿論。理不尽な、理由がね。

 その日まで、鬼は人から姿が見えない様なところに隠れて、たまたま前を通りかかった人の精気を吸い取って、それを糧に生きていた。鬼は人よりも長く生きるわ。だから、何年も何年も、鬼は人の精気を吸って、ここに生きていたの。鬼が生まれたのは、江戸時代よりずっと前だったんじゃ無いかしら。だとしたら、何百年も、ね。その間に、鬼は色々な力を手に入れた。それは、変身の能力だった。本当に、何にでもなれたわ。人間の姿には勿論、女の子にも、男の子にも、大人の人にも、老人にも。赤子にだってなれた。それだけじゃ無いわ。動物にもなれたの。あるときは猫になって、あるときは猿になった。またあるときは、鳥になって空を飛んだわ。空高くまでいくと、気持ちの良い風に吹かれて……とても心地よかった……んでしょうね。でも、能力はそれだけだった。それに、変身した後の姿だと、上手く人間の精気を吸い取れない。別に動物の精気でも良かったのだけれど、それだと、量が足りないのね。だから、鬼は仕方なく鬼の姿のままでいたの。それでも、時々は変身していたわ。

 ……ある日のこと、鬼は小さな女の子の姿になっていた。確か、春の日だったわ。桜はまだ満開では無かったけれど、小さな、桃色の蕾がたくさん、桜の枝に付いていた。道端にはつくしが生えていたの。雑草だって、あんなに綺麗な緑色をしていたのは、あの日が一番なんじゃ無いかしら。それに、どこか甘く感じるような、素晴らしいそよ風だって吹いていた。もう、最高に気分が華やぐ日だったわ。だから、あの鬼も、素直な気持ちで春を楽しむために、小さな女の子の姿になっていたの。人間に見られてしまってもいいように、目の大きな、愛らしい、五、六歳の女の子に。桃色を基調とした上質な着物もあつらえて、それを纏っていた。そして、時を忘れるくらい、遊んだの。小川の水に手を入れてみたり、咲いていた花を摘んでみたり、それで冠を作ったりした。人間が、何人も自分のそばを通ったけれど、誰も怪しまなかった。だって、そのときは醜い鬼の姿じゃなくって、可愛いニンゲンの子供に成り切っていたんだもの。鬼は、せっかく自分の前を通った人間の精気を吸い取るのも忘れて遊んだわ。本当に、何物にも代えられない、素敵な時間だった。

 でも、どんな生き物でも、半日何も食べなければお腹が空くものね。ふと、強い空腹に気付いて、鬼は顔を上げた。誰か、近くに人がいないかと思ってね。すると、少し離れたところにいる少女が、自分をみつめていることに気づいたの。でも、その女の子は、まだ少女と呼べるくらい大きく無かった。その鬼が変身した幼女と、同じくらいの年齢の、まだ幼い子供だった。肩のあたりで切りそろえられた、真っ黒な髪の毛、それとは対照的な真っ白な肌に、潤んだ大きな目。風に吹かれてシャラシャラ鳴る、豪華なかんざし、金銀の糸で豪華に作られた上質な着物を着ていた。一眼で、良家の娘で、大事に育てられていることが分かったわ。それでも不思議だったのは、その子に本来ついているはずの使用人の姿がなかったことね。きっと、大人の目をすり抜けてそこまで一人できたんでしょうね。最初は恥ずかしそうにこちらを見ていたその子も、やがて、鬼に近づいてきた。鬼は、初めてこんなに人間と近づいたことがないってくらい、その子供と近づいた。といっても、女の子の方が一方的に近づいてきただけなんだけどね。息がかかるくらい二人は近づいて、そして……固まってしまった。二人とも、ね。女の子の方は多分、軽く人見知りかなんかして、恥ずかしくなって動けなくなっちゃっただけだと思うわ。でも、鬼の方はそうじゃなかった。だって、今まで話したことも、関わったこともないようなものに急接近されたんだもの。誰だって動けなくなるわよね。でも、その女の子は、しばらくの間もじもじしたあと、鬼に言ったの。「一緒に遊ぼう」って。言うなり、その子は鬼の手を取って駆け出した。鬼も、されるがままに駆けていった。

それが、鬼と女の子の出会いだったの。その女の子の名前は……千代、だったかしら、小夜、だったかしら……もう、覚えていないわ。

 女の子の名前を仮に“千代”としましょうか。その後、川の近くで遊んでいた二人に、すぐに一人の大人の人が近づいてきて、千代に声をかけたの。千代の、お付きの人だった。その日はそれで別れたんだけど、数日後、千代はまた川の近くに来た。それで、鬼のことを、「この間遊んだ子」なんて呼んで大声を出すから、仕方なく鬼はまた幼女の姿になって、千代の前に現れた。また、千代にお付きの人はいなかった。つくづく、大人の目をすり抜けるのが上手な子だと思ったわ。そして、現れた女の子姿の鬼を見て、千代は嬉しそうに声を上げた。次いで、鬼に「お名前は?」と聞いてきた。そこで、鬼はまた固まってしまったの。何故って、鬼に名前など無かったから。だから、驚いた顔のまま、鬼は首を横に振った。「ないの?」と聞かれて、今度は首を縦に。……実はこの鬼、人の言葉は理解できても、言葉を、いや、声を出せなかったのね。出そうとしても、がなるような音になってしまって、声にならない。でも、鬼がさらに驚いたのはここからよ。千代は、鬼に「じゃあ私が名前をつけてあげる」と言って、少し考えた挙句、“加代子”という名前をつけたの。勝手に、よ?笑ってしまうわ。可愛くもあったけれどね。加代子という名前をもらった鬼は、その後も、千代の行きたいところに連れ回されては、そこで遊んだ。鬼には、感情というものが無かった。というか、知らなかったのね。だから、千代と一緒に遊んでいるこの感覚が、楽しいというものだろうか、加代子という新しい名前をつけてもらって、それを呼ばれるたびに感じるこれは、嬉しいという感情だろうか、とか、色々考えた。でも、どれもしっくりくる感じじゃない。それらがよく分からないまま、鬼は、何回も千代と会って、何回も遊んだ。大人が千代を探しに来るまで、遅い時は日暮れ近くまで遊んだわ。

 

 ……ここまでは、普通の話よね?人になんの害も加えない、強いて言うなら人の精気を吸い取っている、それだけの鬼と、ただの女の子の話よね?でも、これからなの。鬼が、本当に鬼となってしまったのは。


 鬼と千代が出会って、一年くらい経ったある日、千代が鬼に言ったの。「山を越え、桜を見に行こう」と。確かに、近くの高い山を越えると崖があって、その対岸に咲いている桜がすごく綺麗だって当時有名だったのね。でも、誰も寄り付かなかった。だって、何しろ山は道がなくて登りづらいし、登り切ったとして、足元の崖が恐ろしくて桜なんて見ている暇がない。何年か前、鳥になってそこまで飛んで行ったことのある鬼はそのことを知っていたの。だから、千代からその提案をされた時、鬼は首を横に振った。でも、千代は頑として譲らないの。どうしても、今日見に行くんだと言って。無言の抵抗を続けたけど、ついに鬼が折れた。二人は、山を登っていった。山中は、道なんてなかったけれど、小さい割に千代は上手く登れそうなところを見つけて、するすると登っていくのね。追いつくのが大変だったくらい。必死でついていって、半日ほどで登りきってしまった。そこから、また上がったり下がったりして歩くのを繰り返して、ようやく、桜が見える崖までたどり着いた。思っていたほど険しくなかった、そう言って千代は笑った。でも、やっとの思いでそこまで登って、歩いてきた鬼は、その言葉を聞くなり倒れてしまったの。千代が、驚いて駆け寄ってくる。鬼は、酷い空腹に気づき、人の精気を吸っていなかったことを思い出した。なんとか千代を見上げると、不安そうな目がこちらを捉えている。もし、ここで自分が動けなくなったら、千代は人を呼んでくるかもしれない。そうなると、面倒なことになると鬼は思った。もし、人間に自分が人でないとバレてしまったら?そこで、殺されそうになったら?変化を解かない限りバレることなんてないと分かっていても、鬼は、ものすごい恐怖に襲われた。だから、鬼はどうにかして動けるようになるための方法を考えたの。この空腹を、どうにかして切り抜けるための。でも、もう、方法なんて一つしか無かった。……分かるわよね?目の前のヒトから……つまり千代から、精気を吸う。これしか無かった。頭上からは、鬼の……いいえ、加代子の安否を問う、千代の心配そうな声が聞こえてくる。鬼は、ガクガクと震える腕を、千代に向かって差し出した。そして、細かに震える人差し指で、千代の後方を指差した。何も無い、虚空を指差したの。千代の注意を逸らすために。無垢な千代は、それにつられて振り向いた。その隙に、鬼は一瞬だけ、変化を解いた。自分の、本来の姿となったの。そして、千代から、ありったけの精気を吸い取った。それは、透明で、全身に隈なく行き渡る、この上なく甘美なものに感じられたわ。でも、自分の体がどんどん軽くなるにつれて、反対に、千代の顔は真っ青になっていった。まあ、千代は向こう側を向いていたから、鬼からは彼女の顔は見えなかったのだけれど。気づいたら、目の前の少女は地に伏していた。何故なら、その鬼は、千代の精気を全て、吸い取ってしまったから。別に、千代は死んだわけじゃ無かったのよ。ただ、一時的に精気を吸い取られてしまって、気を失っただけ。寝ていれば、治ったのだと思うわ。しかし、鬼はそんなこと知らなかった。ゆすっても、彼女の耳元であのがなるような声を上げても、頬を叩いてみても、ピクリともしない。死んだ、と思った。初めて、ヒトを殺した、と。鬼は、狼狽えた。ヒトを殺したら、殺した者も殺される。それが、鬼が棲んでいた村の掟だった。これまでに、何人も殺人の罪で首を刎ねられた人間を見てきた、自分も同じことをされる……それは、物凄い恐怖だったわ。鬼は、考えた。自分の姿。自分が殺してしまった少女。そして、今自分がいる場所は、大人でも入ってこないような、深い山奥。それでも、日が暮れても千代が帰ってこなければ、大人達は探しにくる。そこで、鬼は気づいてしまったの。千代の死体さえ見つからなければ、自分は罪に問われないって。だって、自分は、仮にも加代子という少女であったけれど、山に千代と入っていった加代子は、本当は、この村にはいないんだもの。本当の加代子は、鬼。鬼よ。今まで千代以外の村人と会ったことがなくて、誰が鬼である自分の存在を知っているかしら?

 千代は、まだ死んでなんかいなかった。抱き上げたら、鼓動が伝わってきたはずだし、体温だってまだあって、温かかっただろうに、すっかり動揺していた鬼は、千代を、崖下に……崖下の川に、投げ入れた。そこには、冷たくて太い川が一本、流れていた。千代の軽い体は、川面に叩きつけられ盛大に水飛沫を飛ばしたのち、流れに乗って、ゆっくりと流れていった。そこで、鬼はあることを思い出したの。それは、その川は、隣の村に繋がっているということ。あのまま千代を放っておいたら、千代の体は、いずれ隣の村に流れ着く。千代は……名家の娘だったの。その日だって、上質な、凝った柄の着物を着ていたもの。それは一目瞭然だったわ。だから、もし隣村に流れ着いたら、有名な家柄の子供である千代は、すぐにその身元が知れてしまう。だとしたら、千代を殺した下手人の捜索が、すぐに始まる。再び、あの強い恐怖が鬼を襲った。この後どうすればいいのか。それはすでに分かっていて、頭で考えるより先に、体が動いていたわ。鬼は、滑るように崖下まで駆け下り、まだ川に浮き沈みしている千代の体を抱え上げた。冷たい雫が腕を流れ落ちていく。冷水が、じわじわと下半身を冷やしていく。でも、それにも気づかないで、鬼は、無我夢中で岸まで歩いた。そして、狭い岸に着くなり千代の着物をはだけた。そして……この後、どうなったか、分かるわよね?そう、鬼は……哀れな千代の体を、この世界から抹消しようとして……

 食べてしまったの。

 その時の味は、一生、忘れられなかった。

 人間の精気なんかより、もちろん千代の、あの透き通るようなものより、数倍……いや、比べ物にならないくらい、美味しかったの……


 それからよ、鬼が、人を食べるようになってしまったのは。鬼は、狂ってしまった。正真正銘の、人呑鬼となってしまったの。その日から、何人も何人も人を食べた。男の人より、女の人の方がおいしいと感じたのも、それから程なくしてだった。そして、人目につかない川の近くに棲んで、無防備な人間がたまたま目の前を通りかかった時、川に引きずり込んで食べたの。その川は、流れ出た血液によって、物凄い色に染まった。そして、この鬼には、ある習性があった。人間を食べたとして、首から下ばかりを食べて、頭は、食べなかったのよ。美味しく無かったのか、そんな単純な訳じゃ無かったのかは……分からない……けれど、食べなかったその部分は、川に流した。食べられてしまった多くの人は、髪の長い女性だった。だから、水面には、その人の髪の毛が広く広がって…………だから、髪血川。鬼が人を食べるようになってから、しばらくして、この川はそう呼ばれるようになった……

……

……

 これが、髪血川の、名前の、由来。唯一、私だけが知っている、一つの長い物語よ。



 ここまで聞いてくれて、ありがとう、と言って、目の前の少女……めしきさんは、一息を吐いた。なんだか、悲しくて、でも恐ろしい……そんな話だった。

 めしきさんは、もうすぐこの街からいなくなってしまう。親の転勤……では無いらしいんだけど。でも、クラスの子が一人、いなくなってしまうのは寂しい。最初に、めしきさんは「最後に一人でもクラスの子と話せて良かった」と言っていた。それは、私も同じだ。めしきさん、こちらこそだよ。私からも、ありがとう。そう、伝えようとした時だった。いきなり、私の携帯電話が派手な音を立てた。「⁉︎」着信音だった。画面には、“母さん”の三文字。私はすかさず謝った。

「ご、ごめんなさいめしきさん!なんか、親から電話がかかってきちゃったみたいで……少し、出てもいい?」

 それに対して、めしきさんは落ち着いた感じで、ゆっくりと頷いた。小さな灯取りの窓から入ってくる光で、めしきさんの顔がぼんやりと見えた。彼女の口元には、うっすらと笑いが張り付いている。

「ごめんね」

 私はもう一度謝ってから、携帯電話を耳に当てた。すぐに画面は通話モードに切り替わり、母の声が耳に飛び込んでくる。

『あんた、今どこにいるの⁉︎何時だか、分かってる⁉︎』

「え?今何時?」

 思わず声を大きくしてしまった。声が、反響して大きな音となり、蔵中に響き渡った。慌ててめしきさんを振り返り、手で「ごめん」と合図する。確かに、かなりの時間をここで過ごしてしまったようだ。灯取りの窓からは、光が入って来なくなっている。めしきさんの顔に、黒い光があつまってしまったようで、彼女の顔は、見えなかった。

『いいからとりあえず帰ってきなさい‼︎場所は?』

「えっと……クラスメイトの家にお邪魔してるの……」

『どこら辺の⁉︎』

「えっと……」

 その時、背中のあたりがぽうっと明るくなった。チラッと振り返ると、蝋燭がつけられていた。緩く揺らめく炎が、近くにめしきさんの黒い人影を映し出している。

 私は、なんだか不安な気持ちになって、携帯を耳に押し付けるようにして言った。

「カミチ川……髪血川の、近くの家だよ」

 一瞬の、息を呑むような音の後、母の大きな声が再び耳をつんざいた。

『あんた、今自分がどこにいるか分かっているの⁉︎』

「……え?」

『危ないんだよ、あの川の近くは!人が何人もいなくなっているって、危険だからあまり近寄るなって言ってたじゃない!それに、あの川のあたりに住んでいる子なんて、私知らないわよ⁉︎』

「え……」

『いいから、早く帰ってきなさい‼︎お友達には悪いけど、もう帰るって伝えて。迎えにいくから‼︎』

 プツッという音を立て、電話は切れた。「本当にごめんね、めしきさん。急に電話なんかかかってきちゃって……」そう言いながら、私は振り向いた。振り向いて……

「あ……」

 めしきさんは、居なかった。代わりに、ぐしゃぐしゃに脱ぎ捨てられた、高校の制服。今、私が着ているものと同じやつ。それと、その隣にちょんと座った、影。人の形をしている。突如、蝋燭が、一際激しく揺らめいた。それが、淡くその人影の顔を、体を、照らし出す。それで見えたものに、息が詰まった。

 全身が、黒味を帯びた赤色だった。錆色、とでもいうのだろうか、とても肌色とは遠く似つかない色合いの皮膚を、それはまとっている。頭には、脂っ気のない、ボサボサの茶色味を帯びたザンバラ髪。ほとんどその髪で埋もれてしまった顔の、二つの目は、大きく見開かれ、その黄ばんだ眼球がギラギラと光りながらこちらを捉えている。フッと、生臭い匂いが鼻をついた。何かが腐ったような不快な匂いだった。そいつは、口元を僅かに歪めた。笑ったのだろうか。太い牙が垣間見えた。

 鬼だった。鬼が、そこにいた。

 現実を受け入れない脳みそと、本能的に危険を感知し反射的に逃げる態勢を取った体と。その間に挟まれて、私は、やっとのことで声を出した。「めしき、さんだよね……どうしてっ……何、これ……」

 彼女は……彼女だったものは、こちらをじっと見つめ、口元を歪めたまま、何も答えない。無言で見据えてくる目を、そらすことができない。ジワジワと、頭の中が恐怖で満たされていく。

 一歩、鬼が私に近づいた。それに対して、私は後ずさる。心臓が、一気に早鐘を打ち始める。

「な、に……?お、願い、めしきさ……やめ……」

 また一歩、鬼が小さく踏み出した。

 もう、声は少しも出せなかった。喉が引き攣り、掠れた様な音を立てている。精一杯上げているはずの悲鳴は、がさついた空気となって勢いよく吐き出されていくだけだ。

 また一歩、鬼が近づく。私の体は完全に固まってしまった。指一本、動かせない。瞬きすらできない。髪に埋もれている眼球、それがこちらを見つめている。視線を、そらせなかった。ふと、彼女の言葉を思い出した。『…………私、もうすぐこの街からいなくなるの』『親の転勤?いいえ、違うわ』……鬼に、家族なんていない。『最後に、一人でも同じクラスの人と話せて良かった』最後?違う、私にとって……最期、だ。

 次の瞬間、喉の奥で何かがカチリとはまったように、急に声が出た。甲高い、叫び声だった。これが悪夢なら、私は自分の声で身が覚めただろう。でも、これは夢じゃない、現実だ。喉から飛び出たありったけの声は、蔵の壁に、床に、天井に当たってはね返り……決して、建物の外に響くことはなかった。そうだ、この蔵は……(『音があまり外に響かないからね』)……恐ろしく、防音性が高い。(『色々、便利でしょう。……何がって……』『そのうち、分かるわ』)……今、その意味が分かった。人一人この中で食べたとして、その悲鳴も物音も、少しも外に漏れ出ることはない。吐き気がした。

 その時、気づいた。どうして今まで、気づかなかったんだろう。今まで聞いたことが無い、変わった苗字。クラス名簿には、確か、ひらがなでしか書かれていなかった。何故?漢字にすれば、自分が何者かバレてしまうから。めしきさんの“めしき”は……“女”を、“食らう”……これで、めしき……“女食”、だ。いや、もしくは……“女食鬼”、か。

 目の前の鬼が、手をこちらに伸ばしてくる。長く伸び切り、黄色く変色した爪が首に当たる嫌な感触がした。目を開けていることができなかった。また、あの生臭い匂いが鼻をつく。それっきりだった。私は、首を…………

 





 




 






 


 





 


 

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蔵と鬼 篠目薊 @Sazami0330

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