逆光の樹影、ガラスのリノウ

海野夏

✳︎

窓を開けると、その音で目覚めたらしいアオイが、ん……と小さく声をもらして、布団に潜っていった。


「ごめん。うるさかった?」

「んーん、まだ眠いだけ」


まあるい布団のかたまりが、もごもごと返事する。今日も体調はまずまずか。

これ以上うるさくするのもな、と部屋の空気がある程度入れ替わったら窓を閉めなおす。布団を被っているとはいえ、長い間、アオイを風にさらしておくわけにもいかないし。


「アオイ、僕はもう戻るね」

「……アキラ、今日はここで勉強して」


戻るからと声をかけたら、布団の中から手が生えて僕の服をつかんだ。思わず後ずさるとつかみ上げるように力を入れるのが見えた。


「待って、服にシワがつくから」

「行かない?」

「分かった分かった。だから離して」


そう言って手を撫でると、アオイは渋々といったように僕の服から手を離した。つかまれた辺りはシワシワになっていた。あらら。

この部屋で勉強しろって言ったって、アオイのベッドと慎ましやかなタンス、窓辺に僕くらいしか使ってない書物机と椅子。それくらいしかない部屋だ。勉強道具なんて置いてないし、元々空気の入れ替えしたら戻るつもりだったから僕も何も持ってない。ここに来る途中で掃除のおばさんにもらったキャラメルくらいだ。

ひとまずアオイの手の届かないくらいまで離れた。アオイは僕の言葉を聞いて安心しきっているようだ。

部屋の出口にそうっと近づいて、あと少しというところで、バサリと布団をめくってアオイが僕を睨んだ。


「どこ行くの!」

「ちょっと勉強道具取りに行くんだよ」

「ここにいるって言ったじゃん!」

「何にも無いから勉強できないじゃん」

「アキラならできるから!」

「お前じゃあるまいし、できねーよ。すぐ戻るから大人しく寝てな」


何を言ったって、ここまで離れればアオイに僕は止められない。小走りで部屋を出ると、背後から「アキラのウソツキ!!」と叫ぶ声が聞こえた。嘘じゃないっつーの。


昼間は電気が落とされているから、日陰の廊下は涼しくて、木陰から差し込む程度の日差しがちょうど良い。外の並木の影が落ちて、無機質なツルツルとした石の廊下が森の木立に変わる。この時間帯が好きだ。


「楽しんでる場合じゃなかった」


いつの間にかのんびり歩いていた足をまた急いで動かす。

アオイは僕の兄弟だ。もちろん親も同じ。僕と違うのは僕より遥かに頭が良いことと、すこぶる体が弱いこと。一日に三時間も起き上がっていられないんじゃないかな。ベッドの上でほとんどの時間を過ごす。勉強も先生を部屋に呼んで、話を聞くだけでほとんど理解できる。だからあの部屋に勉強道具は置いてない。その点に関してだけ言えばすごく羨ましい。……とか言ったら怒られるから言わないけど。

そういうわけで、両親はアオイを病院付きの寄宿学校に入れた。もちろん手厚いサポート付きで安心安全の施設だ。一方の僕はというと、


「アキラも一緒じゃないとヤダ」


アオイのワガママのせいで健康優良児そのものだった僕も、アオイについて行くことになった。まぁ良いけど、僕なりに楽しんでるし。

帰りは急いで、職員さんに怒られない程度に走って戻る。でないとアオイがうるさいから……。


「げほっ、げほっ、アキ、ごほっ……」


手に持っていたカバンがどうなるのも構わず、何もかも落っことしてアオイに駆け寄った。いつもの発作だ。叫んでいたから負荷がかかって。

じゃあ僕のせい? いやこいつが自分の限界を知らないから。いつもそうだから。

水を飲ませて、背中をさすっていると、落ち着いたらしいアオイにもう良いと言われた。


「ウソツキ」

「戻ってきたから良いだろ。お前は寝てろ」

「目覚めたから寝ない」

「あっそ。僕は勉強するから」


書き物机はこんな時、僕がここで勉強するためにある。アオイは使わないから、ほとんど僕専用だ。

後ろでシャカシャカと音楽が聴こえる。アオイがスマホから流しているのだろう。何とかってバンド、えぇと……、忘れた。


「アオイ」

「えっ、うるさかった?」

「それは良いけど、そのバンドなんだっけ、名前」

「前も言ったじゃん。ジョセフィーヌズ。この曲は特にお気に入り」


アオイはそう言うとイヤホンを引っこ抜いた。シャカシャカとしか聞こえなかった曲の輪郭が明瞭になる。

ギターとドラムのがっちりした土台に、ピアノで飾られた、よくあるハイトーンボイス。苦味のある甘やかな声は時々掠れて、切実さを覚える。何となく、聴いているのが恥ずかしくなるほどに。


「あぁ〜、それだ。メアリーズとかクリスティーヌズみたいなのだと思ったんだけど」

「何それダッサ」


僕の返事を聞くなりベッドの上でダサいダサいとケラケラと笑っているが、ジョセフィーヌズも大して変わらないと思う。ちなみにジョセフィーヌズにジョセフィーヌというメンバーはいないし、全員日本の成人男性だ。


「あはは、っ、げほげほっ……」

「あーあ、そんなに笑うから。大丈夫かよ」


手を止めて、アオイのそばで落ち着くまで背中をさすって、水を飲ませ、薬を飲ませた。ついでに布団の中に戻してやると不服そうな顔をされた。


「う、はぁ……。アキラのせいだ」

「お前のせいだ」

「……痛いよ」


僕は黙って、アオイの頭を撫でるばかりで、そっと書き物机の前に戻った。ノートの上に木陰が落ちている。窓の外を見ると木の向こうから差し込む光に目を焼かれた。

よく見えないな。


「ねぇ、アキラ」


アオイが呼んでいる。僕は見なかった。


「僕、知ってるんだ。この世界は夢だって。実はこの体が痛いのも、苦しいのも、夢の中の出来事で、現実はそんなことないんだよ」


僕は書き物机の前に座ってペンを持つ。


「アキラ、ここは夢だよ」


そばで声がして、思わず振り返ると、そこには僕と同じ顔、双子の兄弟が笑っていた。




目を覚ましたら、真っ白な天井があった。横からはピ、ピ、と機械の音。なかなかいうことを聞かない体を宥めすかして、首を動かす。

僕はベッドの上、色んな管でこの無機質な機械に繋がれていた。看護師さんらしき人が顔を覗かせ、慌てて出ていった。

僕はどうしてここに、アオイはどこに……。


「彰! 良かった、もうだめかと……」


バタバタと大きな音を立てて入ってきたのは母さんだった。横たわったままの僕を抱きしめてわんわん泣いている。


「ねぇ母さん、アオイは、」

「本当に良かった。葵に続いてあなたまで失っていたら」


頭が真っ白になった。そして、


「そっか葵は、もういないんだったか」


夢を見ていた。

死んだ双子の兄弟との過去の夢だ。あの寄宿学校は、俺たちがかつていたところで、あいつは相変わらずワガママで、頭が良くて、この世界の全てが思い通りになるかのように俺を振り回していた。何一つ思い通りにならない体で。

奇妙だったのは、俺がやってるバンド、ジョセフィーヌズのファンをあいつがしていること。自分の声が聞こえてきたのに、俺は気づかなかった。歌ったことがない、弾いたことがない、知らない曲だったからだ。


売れないからもうやめようと思った日に、俺は車に吹っ飛ばされたんだった。


『痛いのも、苦しいのも全部夢だよ』


葵はいつも俺をそばに置きたがったのに、あいつは現実逃避の魔法を教えて、あのまま夢の中には置いておいてくれなかった。

どうして、と問うのは野暮か。


今はとりあえず、ボイスレコーダーが欲しい。

アオイが好きだと言ったあの曲は、俺が歌わなきゃ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

逆光の樹影、ガラスのリノウ 海野夏 @penguin_blue

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ