第4話 ケモノの孫娘

 崩れた東の山は小さな滝となって新しい湖に水を流しこみ続け、僕はアルとなって生き残った七頭の羊の世話をしながら、時々浮き上がる村人の墓を作る日々を送っている。

 村には約三百人が暮らしていたが、誰も生き残らなかった。浮いてくる死体は一部で、ほとんどは泥の底に埋まってしまったようだ。


(僕は湖に棲まう怪物として、村人を弔って生きていくのだろうか)


 ぼんやり黒い水面を眺めていた時、湖の奥から人の声がして、弾かれたように声に向かって走った。

 新しい湖の岸はもともと山裾だったから、ほとんどが急斜面で、大きな爪が突き出た手足のある怪物だからこそ、すんなりと移動できる。南からの道が新しい湖で途切れた際が目に入ると、兵士らしい男が三人、立往生していた。

「おおーい、もう諦めろ!そっちは行き止まりだぞ」

「まったく、こんな山奥まで逃げるとは…」

「ひでえな。氷河湖が決壊して村が消えたって噂は本当だったのか」

 彼らの視線の先、対岸の急斜面には、白い服を着た女が木にしがみつきながら男たちから遠ざかろうとしている。今にも湖に転げ落ちそうだ。

「どうする?捕まえに行くか?」

「いやあ、疲れれば戻るだろ。行き止まりじゃねえか」

 女が進む先は東の山が削れ残り、湖にせり出した岩山だ。とうとう女は岩壁まで到達し、小さな岩棚に足をかけた。

 その時、女はこっちを向いた。遠くて顔は見えないけれど、驚いたに違いない。対岸の木々の間から巨大な怪物がのぞいているのだから。

 すると彼女は、唐突に足から湖に飛び込んだ。

(ばかだな!泳げると思ったの?)

 まだ水は泥を含んで真っ黒だ。案の定ぷくぷくと泡が浮かんでくるだけで、彼女は一向に浮かび上がらない。水底の深い泥にはまってもがいているのに違いない。

「うおお、どうする?誰か、泳げるか!?」

「泳げねえよ!」

 大騒ぎする彼らは助けにならないらしい。僕は水に飛び込んだ。水中は何も見えないほど濁っているけど、泳げなくはない。

「なんだあれ!」

「熊か?」

「狼か?」

「とんでもなくデカいぞ!」

 今度は彼女の沈んだ場所に近づく大きな背中を見て、狼狽する声が聞こえる。水中でかろうじて彼女の白い服を見つけ、口にくわえて水面へ一度持ち上げた。

「ぎゃあああ!」

「食われた!食われちまった!お、俺たちも逃げないと!」

 彼らの叫び声を背後に、女をくわえたまま東の滝の下に泳いだ。滝のまわりには清浄な水辺があるし、南から見れば岩山によって死角になっているのだ。


 足をくわえて逆さにし、軽く振り回すと、泥水を吐いてうめき声をあげた。近くにいたら怖がるだろうと、水辺の岩に横たえ滝つぼの端まで遠ざかった。女は最初せき込んでいたが、半身を起こし、きょろきょろと辺りを見回した。

(大丈夫、食べようなんてしてないよ)

 隠れようのない巨体の僕は、手と足を縮め、鋭い牙が見えないように口を引き締めた。驚いたことに満面の笑みを浮かべ、よろけながら近づいてきたのは、僕より少し年上、つまり十五くらいの女の子だ。黒い髪に緑色の目、見たことのない顔立ちをしている。

「どこですか?」

 彼女は僕の足元できょろきょろし、周りをさぐりはじめた。

「助けてくださってありがとうございます。この子が向こう岸から私を見ていたから、助けてくださるって思ったのです」

 なんと、彼女は僕をあてにして湖に飛び込んだのだ。それにしてもなぜ男達から逃げていたのだろう。

「私はペルラ。マデラ国から来ました。私の祖父はケモノ生みで、小さいころ祖父のケモノを見ています。ですから、あなたに会ったことを誰かに話したりしませんから、どうか、出ていらして。直接お礼を言わせてください」

 ペルラと名乗った女の子は丁寧な口調で懇願しながら、僕のまわりを一周した。なるほど、彼女はケモノの近くにはケモノ生みの人間がいると知っているのだ。

(出たくても出られないんだ)

 僕は彼女の肩に丸太のような指先でそっと触れ、首を振って残念だという表情をしてみた。アルとなった僕に表情があるのか、わからないけれど。

「今日会ったよそ者に姿を見せるなんて危険は冒せないということでしょうか」

 ペルラはうつむいて滝に向かった。そして泥だらけの服を全部脱ぎ捨て、裸になると、滝の下で体を洗い始めた。灰色だった姿が、真っ白な裸体になり、長い黒髪がその上に美しい曲線で絡みついた。ただ、こんな場所まで山を登って逃げて来たことを示すように、体のあちこちに擦り傷がある。僕は見ていられなくなり、両手で目を覆ってじっとしていた。

 しばらくして足の毛がつんつんと引っ張られた。目を開けると、きれいに洗った服を着たペルラが僕を見上げて頬を染めていた。

「ケモノの目でさえ私の裸を見まいとするなんて、どういうお方なのでしょう」

(僕を誘い出そうとしてわざと裸になったんだね!?)

 あきれたけれど、うっとりした顔をする彼女は、とても美しかった。

(本当の僕が出て行けば、君は鼻で笑って、なあんだって言うだろうな)

 僕に触れた彼女の手は泥だらけになっていた。泥の中で泳いだから、僕も泥だらけなのだ。慌てて滝の下に入ってざばざばと水を浴び、毛皮についた泥や落ち葉や小石を洗い流した。


 夜にかけて、僕はペルラをかつての僕の指定席、左肩にのせ、岸を周って西岸の住処に戻った。沈み残った小さな平地だ。羊たちはおとなしく草を食んでいた。

 何年もかけて水が澄み、魚が増え、植物が茂れば、小さな動物たちと共に狼や熊も戻るのだろう。でも今はあの大変動に恐れをなして、ほとんどの動物たちがこの地から去ってしまった。だから彼女をここに寝かせても危険はないと思う。あたりはしんとして、遠くから滝の落ちる音が聞こえるだけだ。アルの目で見る夜空は圧倒されるほど、たくさんの星で埋め尽くされている。

「どこにいるの?声だけでも聞かせてください」

 また、今はいない僕に話しかけている。

「私、ケモノ生みの血を引く娘として、北の国、ブローヌに連れていかれるところでした。表向きはお嫁入り。でも国同士の取引です。ブローヌの東の隣国デルルクにはケモノ生みがいて、ブローヌもケモノ生みを欲しているのです。でもケモノ生みの孫だからって、子供がケモノ生みになる保証はないでしょう?ブローヌに着いたら私はケモノ生みが生まれるまで子供を産ませられ、普通の子供が生まれれば、その子らは殺されてしまうのでしょう」

 カートがほのめかしていた、ケモノ生みを巡る争いはこんな女の子まで巻き込んでいるのか。僕はこの村で孤独を嘆きながらも、ケモノ生みなんて呼び名さえ知らずに生きてきたことが、むしろ幸運だったのだと気づいた。

「祖父が言っていました。ケモノ生みは人を助けるためにケモノを持つ。助けを必要とする人々の中に生まれ、人々のために生きると。私の国も祖父とケモノが生きていた頃は平和でした。でも今は、王が民をなおざりに、他国との領土や武器や兵士の取り合いに熱中しているのです」

 ペルラは丸くなって横たわる僕の腕によりかかって、僕の毛皮に指をからませた。

「あなたはどんな方なの。もしかしてお年寄りかしら。どこかの国でひどい戦いに駆り出され、ケモノを失って、ここでひっそりと新しいケモノを育てはじめたのかしら。もう人に関わりたくないと絶望するようなことがあったのかしら」

 姿を現さない僕に、ペルラの妄想はどんどん膨らんでいくようだ。僕が女の子の裸も見られないような恥ずかしがりの子供だなんて知る由もない。

(もう寝なよ)

 僕は小さくうなって、彼女をおしやった。彼女はしぶしぶ横になって、あなたに会いたいわ…と、まだ諦め悪くつぶやきながら、やがて静かに寝息をたてはじめた。




<養獣譚 分離の巻>へつづく

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養獣譚 融合の巻 古都瀬しゅう @shuko_seto

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