第3話 生きる選択

 つい下を見て高さに身震いし、上にいるアルに視線を戻した。


 東の山の氷に気を付けろ

 カートの言葉が気になって、村の東にそびえる崖を登っているのだ。

アルに同化し、大きな体と鋭い爪を生かして岩場を登り、くわえたロープを垂らしてから自分に戻ってロープにしがみつき、アルに引かせている。

 ようやく頂上らしき平地に着くと、眼前は深い森だった。崖を登って森を見たのは村で僕が初めてだろう。アルに自分を掴み上げさせて肩に乗り、僕の体ほどもある頭をなでた。

「ありがとう、アル」

 ケモノは自分とすれば、お礼なんて変かもしれない。でもアルは唯一の友達だから。


 静かで薄暗い森の奥へ進んで行くと、とつぜん光あふれる湖が目の前に現れた。両側を山にはさまれ、長細くうねって続く湖の先に、真っ白い雪に覆われた高山が見える。東の山の氷というのは、あそこにある氷に違いない。辿りつくには、この湖を渡るか、湖を迂回して山の上を進むかだ。

 水の中に魚が見えたから、アルに捕まえさせて丸呑みにさせ、泳ぐ能力を吸収した。村には浅い川しかないから泳がせるなんて考えたこともなかった。

 アルを湖に入らせたが、浮きもしない。泳げることと浮くことは別なのだ。カートが言ったように、翼を付けたからといって飛べるわけではない。そこでもう一匹魚を呑んで、浮く能力を吸収させ、やっと自由自在に泳げるようになった。


 山のような背中が白波を立てて泳ぐ姿は豪快だった。上に乗って高山に向かって進んだ。この速さで行って帰れば、暗くなる前に家に着いて、羊を小屋に入れられるだろう。

 湖は長く、太い川のように曲がりくねっている。

 だいぶ進んだところで、ぬっと行く手を塞いだのは薄青い氷の塊だった。

「カートが言ってたのってこれ?危なくないよね、アル…」

 巨大な氷を横目で見ながら、さらに進み、湖の東端に着いたとき、世界の色が変わったような光景に、アルの背中で立ち上がり、見とれてしまった。

 氷の絶壁が青白く輝き、そびえたっている。山に降った雪が氷河となり、湖と接する境目なのだ。さっき浮いていた氷は、壁が崩れた破片だったのだろう。

 氷の壁の下に近づいて見上げると、壁の上から吹き降ろす風のなんと気持ちの良いことだろう。氷が解けて流れ出る水のなんと清浄なことだろう。

「うぉー」

 アルみたいに叫ぶと、僕の声は氷壁に沿って天へ響いた。


 あっと思った時には遅かった。


 ビシッ、ザリザリ!

 硬いものが崩れ空気を震わす轟音があたりに満ち、目の前の氷壁がこちらに向かって倒れてきた。さっきアルと登った岩壁よりも大きい氷の壁だ。アルは巨大な氷と一体となって水中に没し、僕は冷たい水の中に叩きこまれた。僕は泳げない。とっさにアルに心を移す。大波に翻弄され、視界がぐるぐる回り、その端に氷の塊と共に水の中に沈んでいく自分の姿が映った。

 巨大な氷河の壁が崩れそうだ、それがカートの言葉の意味だったのだ!

 アルに同化している僕は、ようやく僕の体に泳ぎついた。アルの目は僕を見ているのに、だんだん視界がかすれていく。僕自身の命が消えかけているのだ。体が冷え、水が口や鼻からなだれこんでいるのがわかる。


 僕が死んだらアルは消える。冷たい井戸に消えたティトのように。


 その時の決断が、自分のためだったのか、アルを消したくない一心だったのかはわからない。でもアルは目の前の僕を大きな口を開けて吸い込んだ。

 僕は、アルに丸呑みにされた。いや僕が、僕を丸呑みにしたのだ。


 突然、薄れかけていた意識がはっきりした。僕を食べたアルに同化している僕は、そうだ、アル、僕の心を吸収するのだ!と命令した。

 変化はあっと言う間だった。僕の溺れかけた体がどうなったのかわからない。今や僕がアル。大きな体で水の中を自由自在に泳ぎ回っている。水面に出ると、僕が泳いできた方向、つまり村のほうにむけて、氷の落下でできた大きな波が遠ざかっていくのが見えた。僕は波に追い付くべく全力で泳いだ。


(どうなってしまうのだろう)

 この大量の水が湖からあふれ、ぼくの村に押し寄せ、東の山の上から滝のような水が降り注いだら。

 一瞬の想像は現実の光景に圧倒された。水は両側の山の斜面を削り、木をなぎ倒し、岩をころがし、水ではない、土と泥と岩と倒木の塊となって村の方へ、ごうごう、ばきばき、がらがら、と不気味な音と共に移動していくのだ。僕はむしろ前へ進んでは自分の身が危ないと悟り、湖岸に辿りついて削り取られた山肌に這い登った。残った木々を手掛かりに山の稜線に出ると、振り向いて愕然とした。

 湖の水が、ほとんど無くなっていた。あの大量の水。泳ぎ渡るのにあれほど時間がかかった大きな湖の水が、ぼくの村の方角へ流れ出てしまったのだ。

 僕は走った。山の稜線をアルの敏捷な体で、木々の間を縫うように走り抜けた。だが泳いで移動するより倍以上も時間がかかる。

 太陽が傾き、日差しの色が白から薄黄色くなるころ、湖の西端だった場所にたどりつき、そして、立ちすくんだ。村の東の山、アルと上った岩壁、岩壁から湖までの小さな森。それらは完全に姿を消し、村へ続く斜面になっていた。水は今もその斜面をざあざあと流れ下っている。

 僕はかろうじて破壊を逃れた山の端を進み、村が見下ろせる場所に進んだ。

「ウオー!」

 口から発せられたのは、アルの咆哮だった。

(母さん、父さん、みんな!)

 そう叫びたいのに、ウオー、ウオー、というアルの咆哮が谷を響き渡るのを、自分が発した声ではない、何かの悲しみの声のように聞いた。


 僕の村は黒い湖となって、跡形もなく姿を消していた。




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