12-9 自分を偽らなくてもいい場所

 アキトはそれからエツコを相手に、オカダの一件に関する愚痴を重ねた。今すぐにでも溜まった不満を発散したくてたまらなかったのだ。

「もう東帝大学なんて二度と戻らないよ。あんな場所、辞めてよかった。戻って来いなんて言われても、こっちから願い下げだ」

 エツコはアキトのあまりの剣幕に苦笑しつつ、「まぁまぁ」と慰める。

 だが、エツコもアキトの話には思うところがあるようで、大きな溜め息をついた。

「でも、αであることが殊更自分のアイデンティティになっている人っていうのは、悲惨よね。どんなに蝶よ花よと栄華を極めていても、ちょっとした落とし穴に嵌ると底なし沼に落ちたように、どんどん落ちていってしまう」


 確かに、あれ程東帝大学の「若きホープ」としてブイブイいわせていたオカダも今ではすっかり没落し、職すら失ってしまった。

 あれ程お追従ついしょうを言って金魚の糞をしていた研究室の連中は揃ってそっぽを向き、反旗を翻している。


「俺もあのまま、生粋のαだってことだけに固執して生きていたら、いずれはオカダ先生みたいになっていたのかな……」

 アキトはポツリと呟いた。

「あんたには今ではケンちゃんがいて、民宿の女将さんもいるんでしょ? 今のあんたにそんな心配は一切不要だわよ」

 エツコはそう言ってアキトを笑った。

「でも、あんたもずっとα性にこだわって拗らせていたものね。最初出会った時なんか、可哀想になるくらいだった。でも、今のあんたはあの時とは比べ物にならないくらい穏やかな表情をしているわ。ケンちゃんと出会えて本当によかったわね」


 先程の会議でケンシロウと出会ったことがまるで悪かのように言われた後に、エツコに真逆のことを言われると、アキトはMonster Boyという場所の居心地の良さを改めて実感する。

 このバーはΩのためだけのバーではない。

 αだろうがΩだろうがどんな属性の人間でも必死に前を向いて生きている人たちを

包み込んでくれる温かさがある。

 ここでは自分を偽らなくていい。自分らしく生きることを肯定してくれる。


「でも、安心したわ。アキちゃん、長野の民宿でもちゃんと馴染んで仕事出来ているのね。田舎暮らしは田舎暮らしで大変なこともあるでしょうけど、女将さんがよっぽどいい方なのね」

 エツコがしみじみとそう言ったのを訊いて、アキトの表情が少し曇った。

「あら、どうかしたの?」

 エツコがそんなアキトの表情の変化を見逃さずにすかさず尋ねて来る。

 エツコの前では自分の考えや想いを隠すことなく全て曝け出しても大丈夫であることをアキトは知っている。


 アキトはアケミとケンシロウが何やら隠し事をしていることが気になって仕方がないのだと話した。

「アケミさんの話は何だか重くて、これ以上訊いちゃいけないような気がして。ケンシロウもあの話をして以来、何か様子がおかしいんだよ」

「確かに訊いちゃいけない知られてはいけない秘密をひけらかされると、余計に知りたくなるわよね。わたしもちょっとアケミさんという人には興味があるわ」

「エツコママも?」

「ええ。だって、アキちゃんとケンちゃんを碌に面接もしないで雇い入れるなんて、何かあると思うもの」

「やっぱりそこから変なのかなぁ……」

「アケミさんってどういう方なの?」

 

 エツコがアケミに随分興味を抱いたようなので、アキトとケンシロウが龍山荘で働き始めた記念にアケミと三人で撮った写真を見せた。

「この人がアケミさんなの?」

 エツコは眼鏡をかけてじっと写真に写るアケミの姿に釘付けになった。

 そして、アキトの顔とアケミの顔を見比べる。

「え? 俺の顔とアケミさんの顔に何か関係でもあるの?」

 アキトはいぶかし気に尋ねた。

「あ、いえ。何でもないわ」

 いつもは快活なエツコが珍しく歯切れが悪い回答を寄越した。

 それ以降、エツコまでアキトに何かを隠しているように押し黙ってしまったのだった。

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