10-3 善は急げ

 長野。今暮らしている新宿から車で三時間はかかるであろう遠い場所だ。

 エツコはずっとケンシロウにとって第二の母として、実の親よりも多くの愛情を注いで来た、いわばケンシロウにとっての唯一の家族だった。

 この龍山荘で働き始めるということは、エツコとの別れをも意味しているのだ。


 だが、このままこの場所にくすぶっていても明るい未来は描けない。

 いずれはアキトが研究者になるのを待って、彼に養って貰うだけの人生が果たして幸せだろうか。

 別にエツコと永遠の別れになる訳ではない。仕事の合間を見て会いに行くことだって出来る。

 それに今のケンシロウは一人じゃない。

 誰よりも大切で愛するアキトという存在がいるのだ。


「オレは大丈夫。ここの求人は二人分出ているんだ。アキトと二人で働けるなら、オレは淋しくない。アキトはオレにとって、もうエツコママ以上の存在なんだ」

 ケンシロウはキッパリとアキトにそう言い切った。

「ケンシロウ……」

 アキトは目をウルウルさせてケンシロウを抱き締めた。

「善は急げって言うじゃん? この龍山荘って民宿にまずは電話してみようよ」

 ケンシロウはアキトを急き立てた。


 それからの話は驚く程早かった。

 アキトが先方の龍山荘に電話し、少し話をするや、すぐにアキトとケンシロウを従業員として雇い入れることが決定されたらしい。

「オレ、電話に出てもないのに大丈夫なのかな?」

 流石に面接一つせず、電話一本で仕事が決まったことにケンシロウは少し困惑した。

「俺も少し変だと思ったけど、電話に出たのは人のさそうなおばさんだったし、詐欺って訳でもなさそうだったぜ」」

 「人が好さそうな」おばさんの声だけで大丈夫だと決めつけるのは少々危うい気もするが、掴んだチャンスは逃したくはない。


 早速、ケンシロウは引っ越し準備に取り掛かることにした。

 といっても、ケンシロウの私物など大したものはない。

 ベッドやタンスなど大き目の家具は全て売り払ってしまえば、後は洋服や生理用品がこまごまとある程度だ。


 だが、問題はアキトの方だった。

 大学院の退学手続きを取り、研究室に大量に置いてある本の山を処分した。

 更に、アキトの実家に置いてある私物も多い。

 龍山荘に持って行かない物をバザーに出したり、ゴミに出したりするのに半月近くの時間を要した。


 それでも、アキトもケンシロウもこれからの二人での田舎暮らしにワクワクと胸を躍らせていた。

 これからはずっと一緒だ。

 二人で力を合わせて働いていけば、きっと忙しくても穏やかな毎日が続いていくことだろう。


 龍山荘に向けて旅立つまでの日々は飛ぶように過ぎ去り、出発前日の夜にケンシロウはアキトを伴ってMonsterモンスター Boyボーイにエツコに別れの挨拶をしに訪れた。

 十七歳の時に家を出てから三年間を過ごした新宿二丁目ともお別れだ。

 楽しいことよりも辛いことの方がよっぽど多かったこの街だが、いざ離れるとなると淋しさが込み上げて来る。

 Monster Boyに向かう道中、見慣れた二丁目の街並みを眺めながら、ケンシロウは感傷に浸っていた。

「もうこの街ともお別れなんだなぁ」

 しんみりと呟いたケンシロウをそっとアキトが抱き寄せた。

「お別れじゃないよ。いつでも来ようと思えば来れるじゃないか」

「そうだね。うん」

 ケンシロウは自分に言い訊かせるように頷いた。

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