6-5 子どもが出来ずとも

 顔に強い衝撃が見舞い、頬が一瞬にして熱くなった。その衝撃のままアキトは床へと投げ出された。

「ニカイドウ先生!」

 ケンシロウの医師がおろおろして叫んだ。そんな医師を押しのけて、サダオはアキトの胸倉をつかんだ。

「お前は……お前ってやつは……」

 サダオの目は血走り、アキトの胸倉を掴む手は怒りのせいかプルプル震えていた。

「父さん……すみませんでした」

 アキトは消え入りそうな声で謝った。

「後で母さんと一緒にお前とじっくり話すことにする」

 サダオはそれだけアキトに告げると、その場を立ち去って行った。


 終わった。これで全てが終わったのだ。

 サダオの期待に応えようと一心に今まで努力して来た全てが塵となり、散っていったのだ。

 虚しかった。自分の今までの人生は何だったのだろうと思った。


 でも、これでケンシロウは守られたのだ。それだけで十分だ。いくら自分が苦境に立たされたとしても、あの愛らしいケンシロウの笑顔だけは曇らせたくない。


 いつの間にか、サダオに殴られた頬がジンジンと痛んでいることに気が付いた。床にポタポタと鼻血が滴り落ちている。

 余程サダオも腹に据えかねたらしい。全力の拳がアキトの顔面を強打したようだった。

 アキトはよろよろと立ち上がった。


「ケンシロウは今どこに?」

 医師が慌ててアキトを助け起こしながらアキトの問いに答えた。

「まだ処置室にいます」

「もうこれであいつを連れて帰れるのですか?」

「いいえ。今は応急処置として痛み止めで痛みを緩和をしているだけです。これから一週間の投薬治療と安静が必要になります。したがって、治療の間、暫く入院が必要になるのですが……」

「わかりました。俺が手続きをします」

 アキトはそこまで言って、もう一つ確認しなければならなかったことを思い出した。

「先生。ケンシロウは一週間治療したら治るんですか?」

「はい。子宮の収縮は点滴を一週間も続ければ元に戻るでしょう。腹痛に襲われることもないと思います。ただ……」

 医師はそこで口ごもった。

「ただ?」


 医師は言い出しにくそうにしながら、こんなことを明かした。

「発情促進剤の副作用はもっと長期に渡って身体に現れることがあります。特に妊娠は今後難しいかもしれません。排卵がうまく出来なくなる可能性が高いんです。それにここまで子宮が収縮してしまうと、元に戻ったとしても子宮自体に対するダメージも大きく、受精にも影響が出て来てしまう」

 ケンシロウとの子どもが望めない。

 少し残念だとは思ったが、彼の命が助かるのであれば、アキトにとってそんなことは些細な問題だった。

 それより、子どもが出来ないと知ったケンシロウが悲しむのではないかということが心配だ。

「わかりました。そのことはケンシロウには黙っていてください」

 アキトは医師にそう頼むと、入院手続きをしに、病院の受付に案内されて行った。


 入院手続きを済ませたアキトがケンシロウの病室を訪れると、すっかり落ち着いた様子で彼はすやすやと安らかな寝息を立てていた。


 何でこいつが発情促進剤なんて危険なものに手を出さねばならなかったのだろう。自分の身体を痛めつけてまで、なぜ……。


 きっと、ケンシロウと初めて会ったあの新宿二丁目のクルージングスポットでも、彼は発情促進剤を服用していたに違いない。

 あの強烈なフェロモンの香りは、明らかに異常だった。


 でも、そこまでしてでもケンシロウは番を手に入れたかったのだろう。

 ケンシロウは生きるのに必死だった。番を手に入れなければ、先はない。そう思っていたに違いない。


 だから、そんなケンシロウに騙されたなんて思わない。欺かれたなんて恨む訳がない。

 それに、発情促進剤の結果だったにせよ、今のアキトはケンシロウといられて幸せなのだ。こんなに人を愛したのはこれが初めてだった。

 それは決して発情促進剤をケンシロウが使っていたからではない。アキトはこのケンシロウという青年をただ心から愛しているのだ。


 それでも、自分の身体を痛めつけながらも、二丁目で必死に生きていた姿を思うと、アキトは胸が張り裂けそうだった。


 アキトはケンシロウの愛らしい寝顔を見やった。


 こんないたいけな可愛いやつがこんな過酷な運命を辿らなければならなかったなんて……。


 発覚した事実の残酷さとそんなケンシロウに気付いてやれなかった自分への腹立たしさと切なさに思わず涙が零れた。

「ケンシロウ……」

 アキトはケンシロウの手を握りながら、彼のベッドサイドに突っ伏して静かにすすり泣いた。

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