3-3 ケンシロウの元へ

 このマナベ・ケンシロウという男の家に行ってもいいのだろうか。ただの悪戯ではないだろうか。

 でもただの悪戯にしては手が込んでいる。


 そもそもこのマナベ・ケンシロウという人物があのΩであったとして、彼に会いに行ったところでどうなるというのだろう?

 「生粋のα」としてαと結婚し、家庭を築くことこそが自分の人生における最大の目標だと考えて来たアキトにとって、いくら番になったとはいえ、Ωなどと関わりを持つことにどんなメリットがあるというのだろう。

 社会的地位も低く、αに寄生して生きることしか出来ぬ「人もどき」のΩなど、アキトの人生には必要がないはずであった。


 だが、アキトの脳裏には何度も強烈なまでにあのΩの姿がよみがえって来た。

 忘れようとすればするほど彼の姿は大きくなり、彼に再会し、もう一度あの美しいたいに触れたいという欲求が抑えられなくなる。

 いつの間にか、アキトの股間は大きく膨れ上がり、先端から漏れ出た濃厚な液体がパンツを濡らしていた。


 「生粋のα」たるもの、理性的であるべきだ。こんな性的衝動などに突き動かされて、二度と同じ過ちを繰り返してはならない。

 アキトは肩で息をしながら何度も自分のこれまでモットーとして来たこの文言を心の中で繰り返した。


 でも、一度あのΩの顔を見るだけならそこまで問題がないのではないか。

 そんな悪魔の声がアキトの耳元で囁く。

 理性的なαであることをモットーとするのがアキトの生き方だ。昨夜のように衝動に突き動かされるまま、襲い掛かったりしなければいいだけだ。ただあの美しく可憐なΩの姿をもう一度この目に焼き付けたいだけなのだから。

 欲にどうしても勝つことの出来なかったアキトはそう自分に言い訳をし、その「マナベ・ケンシロウ」の住む家へと向かうことにした。


 電車を乗り継ぎ辿り着いたのは、新宿二丁目からほど近い場所にある、木造建ての薄汚れたアパートだった。

 壁にはつたが這い、階段は錆びて赤く変色している。築四、五十年といったところだろうか。いかにも社会の最底辺層が住んでいそうな汚らしい建物だ。

 アキトはマナベ・ケンシロウの住むらしいそのボロアパートに憐れみと侮蔑の混ざった視線をやった。


 だが、アキトはΩの住む家を嘲笑いに来たわけではない。

 このマナベ・ケンシロウという人物が、新宿二丁目のクルージングスポットで番となったあのΩと同一人物であるのかどうかを確かめに来たのだ。


 まずは、本当にこのアパートにマナベ・ケンシロウが暮らしているのかどうかを確かめねばならない。

 アキトは住所に記された部屋番号の前の表札を確認した。

 「マナベ」という文字の刻まれたプレートが入っている。

 やはり、このメモ用紙をアキトの鞄に差し込んだ犯人は、このアパートに住む人間だということに違いはないらしい。


 だがここまで来ておいて、アキトは呼び鈴を鳴らすことに躊躇した。

 もしこのマナベ・ケンシロウがあのΩでなかったとしたら、このマナベ・ケンシロウという人間に一体何を話せばいいのだろうか?

 そしてこのマナベ・ケンシロウがあのΩ本人だったとしても、アキトはあのΩに実際に会ってから何をすればいいのかわからなかった。


 もし、昨日のような強烈なフェロモンの香りに当てられたら……。

 もし、その時に前後不覚になり、今度こそあいつを妊娠させてしまったら……。

 何だか怖くなってなかなか呼び鈴に置いた人差し指に力を入れられない。そのままどれだけの時間が経過しただろうか。


 いきなりマナベ・ケンシロウの住む部屋の扉がガチャリと開き、中からふわっと二丁目で嗅いだあのΩ独特の甘ったるいフェロモンの香りがアキトの鼻を包み込んだ。

 そして、その部屋の住人がアキトの目の前に姿を現したのだった。

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