吹かぬものかは
それからしばらく、明里は慣れない家事に手を焼き続けた。
今まで彼にまかせっきりだったことは、正直申し訳ないと思っていた。
当たり前だ。共同生活をするのに、いつまでも年上の彼に甘えていてはいられない。
仕事で自分の身を立てられるようになったんだから、今度は彼にお返しをしてあげる番だ。いや、それは正しくないか。
愛しい夫と対等に生きるためには、いつ何があっても、わたしが彼を支えられるように、夫ができることは、自分もできるようになっておかないといけない。
しかし、明里が幾度となく作り続けた料理は、冷めてから夫の腹に収まることが多くなっていった。
結婚記念日の前から、夫の帰りは明らかに遅くなっていた。
感謝こそしてくれるものの、顔色のすぐれない夫は、食事を済ませるとシャワーだけ浴びて、そのまま寝てしまう。
夫婦らしい語らい、その先のスキンシップなど望むべくもないほど、男の生活サイクルは窮していった。
明里は夫に肩揉みを提案する。かつて明里自身が夫にしてもらったように。
しかし夫はひとところにとどまる時間さえもったいないという風で、さっさと勝手に動いて、すぐさま布団に滑り込んでしまう。
明里の下腹部の疼きは、ただいや増しに増すばかりであった。
その発散先もないまま、悶々とした日々だけがいたずらに過ぎていく。
とうとう明里は我慢の限界を超えた。
これほどまでにすれ違いが重なるなら、この気持ちを夫に直接打ち明けるしかない。明里には、正攻法しか思いつかなかった。
珍しく二人の休みが合った日、明里は自分の心を落ち着けるために、温かい紅茶を二杯入れた。夫を呼び、リビングの椅子に座るよう頼む。
「あ、あのね。今日は折り入って、あなたにお願いがあるの」
変にかしこまった言葉を訂正する余裕さえもない明里を、夫は胡乱な目で見つめる。
「最近、わたし、料理とか、お掃除とか、ちょっとずつやるようになって。そうして初めてあなたの大変さが分かった。だから、これからは家事を、二人で分担する約束をしたい、な」
「ああ、それはそうだな。本当に最近、明里はよくやってくれてるよ。俺も手が回らないことが増えてきたから、助かる」
男はテーブル越しに明里の頭を撫でる。仕事に家事にと奔走しながら、明里のことを10年近くも守り続けてきた手。
明里の心は、にわかにふにゃりと溶けた。今なら言えそう。どうやって言うべきかも、明里にはもうわかっていた。
「えへへ、嬉しい……わたしね、あなたにこうして触れられると、いままでずっと言えなかったんだけど、すごく嬉しくなるの。だから、だからね。わたし、あなたと、えっちしたいな、って、最近思うんだけど……だめ?」
男の手が、凍り付いた。驚いたのか、怒ったのかはわからないが、男の黒目も、わずかに広がったように見える。
「……明里、それは――」
男は、やおら明里の頭から手を引く。触れたことを後悔してさえいるように見えた様子に、震える声を付け足す。
「――ちょっと、やめた方が良い。困る」
全く予期していなかった返答に、明里は横顔を思い切り鉄棒で殴られたような錯覚を起こした。
男の答えは、明里の理解を超えていた。今まで誘い続けてきたのはそっちではなかったか?自分がOKを出せば、合意するはずではなかったか?
わからない、わからない、わからない。
明里の脳は瞬時にオーバーヒートした。
「――え、どうして、?わ、わたし、何かした?」
「いや、そういうわけじゃないんだ」
「そういうわけじゃないなら、どういうわけなの?わたしのこと、嫌いになっちゃった?もう、わたしに、魅力ない?」
「それも違う。明里のことを嫌いになってはいないし、魅力的だとは思っている」
「じゃ、じゃあ、どうして、嫌がるの?もしかして、他に浮気を」
「落ち着けよ!」
いつもは優しい、わたしの大好きな夫に、拒絶された挙句、普段よりも大きな声で制止される。
明里はここに至って、自分が危険なラインを踏み越えそうになっていることに気が付いた。
「違う、違うんだ。そういうことじゃない。ただ――俺は、もう明里と、そういうことは、できない。俺は、おれ、お」
気がつけば、男の目にもうっすら涙が浮かんでいる。明里は、今更ながらに、男にどれほど辛い仕打ちをしてきたか、向き合わざるを得ないことを自覚し始めた。
「――俺が今まで、どれだけ我慢してきたか、すこしは、わかったか」
絞り出すように言うと、男は目を拭って眉間を押さえ、さめざめと泣いた。
この涙は10年の恨みの結晶だと、男は思った。
隠していた思い、出すまいと心の奥に押し込めていた思いを、ついに吐き出してしまった。しかも、考え得る限り最悪にかなり近い形で。
明里の方は、男よりもさらに酷く苛まれていた。
思い返せば、わたしは、ずっと助けられていた。
就活の時も。
卒論の時も。
社会人になっても。
いつだって、あなたの方が忙しかったはずなのに、それでもわたしのために、時間も、労力も、可能な限り割いてくれた。
それなのに、わたしは今、人生の恩人に、なんといった?
ちょっとずつやるようになった?ちがう、本当はもっと早くできるようにならなければいけなかったのだ。
触れられるとうれしくなる?今まであなたの申し出を拒み続けてきたわたしが、今更どの口でそれを言うのか。
男の献身を当たり前だと思っていた自分は、どこまでも子供だった。
この年まで、だいすきなはずの夫を、飼い殺しにしてしまった。ずっと放置してしまった。わたしはただのお姫様を気取った愚か者にすぎなかった。
明里は、まずなににしても、この人に謝らなければならない、と思った。
体が疼くだのなんだのは、二の次だ。まずは今までの負債を、正しく返さないといけない。その結果、一生わたしの体に触れてもらえなくなったとしても、それは全部、自分で蒔いた種、自業自得にすぎないのだから。
「――ごめん。ごめんね。わたし、全然知らなかった。あなたをそんなに傷つけていたなんて、わからなかった。どうすれば、許してくれる?」
男はすでに涙を止めていた。少しだけ赤くなった目からは、しかし、何の感情も読み取れなかった。あれほど無下に扱ってきた男の心を、今の明里は何よりも欲していた。
「どうしたら、と言われても……」
「わたし、なんでもするよ。あなたが望むなら、どんなことでもする。あなたをそんなに追い詰めていたなんて、つらいの。だから、許してもらえないかもしれないけど、あなたにしてもらった分、お礼させてほしい」
年を重ねてもなお可憐な愛くるしさを失わない明里の、小動物のような潤んだ瞳に男の心は揺れた。
奥底に沈んだ澱みをすくえるほど、軽い恨みではない。今更、どのような顔をして明里の体に向き合えというのか。
しかし、かといって、明里に同じような「お預け」を食わせて復讐した気になるほど男の器は小さくもない。それに、まがりなりにも今までずっと大切に守ってきた妻だ。いたずらに傷つけるならいっそ、解放してやった方がいいのではないか。
男は振り子になった。ただ俺が心を壊しさえすればよい、と思えば思うほど、妻への恨みは募るばかりであった。箱に押し込めて見て見ぬふりをしていた感情は、ひとたび開けたが最後、無限に増殖する悪意となって男を蝕み続けた。
男が激務を乗り越えて家に着くたび、明里は甲斐甲斐しく出迎える。
リビングにはテーブルいっぱいの料理。
よくもまあ、こうもベストタイミングで用意できるものだと、男は感心する。
そうして、明里にここまで無理をさせている自分に、またひとつ腹が立つ。
ギリギリまで感情を節約したつもりだったが、男の一挙手一投足を自分の贖罪に繋げようと神経を尖らせている明里は、その微細な変化を見逃さなかった。
「ううん、大丈夫だよ、今はわたし、仕事あまり忙しくないし。繁忙期は過ぎたから、これくらい朝飯前だよ。まあ、ほんとは晩御飯前だけど」
俺を和ませようとした、明里なりの精一杯のジョークにさえ全力では笑ってやれない自分に、また一つダメの得点を与える。
このままでは、本当にまずい。明らかに視野狭窄に陥っていることは自分でもわかってはいた。もはやこの問題は、俺の命か明里の命のどちらかが消えないことには解決しないのではないかとさえ思えてきた。
もはや限界だった。
目だけがぐらつくまま男が固まっていると、明里は突然、崩れるように泣き出した。
「ごめんなさい、ごめんなさい、わたしが悪いの。あなたをこんなに壊しちゃったのはわたしのせいだってわかってるの。あなたを放っておいて、自分のことばっかり考えて、こんなに長い間あなたを傷つけて、後悔してる」
泣きながら謝る明里を、男はただ見下ろすしかなかった。
「もし、わたしとするのがどうしてもいやだっていうなら、離婚してくれてもいい。慰謝料も、必要なら払うから。すごく悲しいし、つらいけれど、あなたが苦しむならその方がいい。でも、でも、もし、ほんの少しでもわたしを好きでいてくれるなら、あなたの許す限りでいいから、抱いてほしい。どんなことでもするし、あなたがしたいこと、なんでもするよ。だからもう一度、考え直してほしい」
知らないわけではなかった。
当たり前だ。明里には、一切の悪気がなかった。
まして浮気の跡など露ほども見えず、心変わりをしているなどとは決してありえない。明里は生来の不器用さのせいで男の心に気づけなかっただけだ。
だからこそ、男はなおも辛い。素直に憎めたら、どれほどよかったことか。
明里を殺したいほど、憎んで、憎んで、憎むことが、どうしてもできないからこそ、男はそれでも、明里を愛しているからこそ、余計に遣る瀬がなかった。
「……一週間、時間をくれ。その間に答えを出す」
わからないから目を逸らしていた感情は、目を向けてもなお、わからないままだった。
明里のことは愛している。
だがそれは、中身のない空疎な愛だった。
なぜ自分は明里を愛しているのか、と問われると、愛することそれ自体が義務だから、と答えてしまいそうで、自分の木偶人形っぷりに愕然とすることを、日に二度も三度も繰り返した。
それを七日繰り返して、約束の日の帰路で男はようやく踏ん切りがついた。
答えは初めからそこにあった。しかし厚いヴェールに包まれていて、見えなくなっていただけだった。
かつて、胸を焦がすくらいセックスをしたかった時があった。あの日のような純粋な性欲はもうかなり消えかけているものの、それでも明里がしたいというのなら、付き合うのが夫の運命であり仕事だろう、と思う。
玄関を開くと、明里も普段よりぎこちない面持ちで俺を出迎える。その顔が、悪い点数のテストを返却された日の小学生のようで、男は少しだけ絆された。
そうだ、俺はこれでいいんだ。こんな小さな幸せの炎を、大事に、大事に育てていこう。
再構築しようと、明里に言おう。セックスの妥協点も、今の明里となら話し合って乗り越えられそうな気がする。
食事を終え、風呂も済ませ、寝室にて明里を待つ。
俺の心は幾分軽かった。この状況に合理性を自分で見つけられたから、将来に対する悲観もせずに済みそうだ、と男はひとり首肯していた。
扉からノックの音が聞こえる。
「どうした?」
男が呼ぶと、開いた扉の向こうから明里が体を強張らせながら入ってきた。
薄いシースルーのワンピース一枚を除き、下着を一切つけていない。
いつの間に、どこで買ってきたのか皆目見当もつかないが、明里のしなやかな身体のすべてが否応なしに見えてしまい、男は目を逸らさずにはいられなかった。
「お、おい、どういうつもりだ」
男の必死の抗議には耳を貸さず、明里は男の前で正座する。
「――最後のお願いを、させてください」
最後の、という言葉に驚いた男が明里の方に目をやれば、明里の目に大粒の涙が浮かんでいることに気が付いた。
「優しいあなたのことだから、たぶんわたしと離婚はしないと思うんです。わたしのわがままを叶えるために、事務的でもよければセックスはするから、もう一回やり直そうって、思ってくれてると思います」
今度は男が横面を張られた気がした。
このわずかな間に、明里は男を飛び越してはるかに物の分別がつく人間になっていた。
俺の今までの振る舞いや様子から、もうすでに答えを見抜かれていたとは、と、二の句をつげない男を置いて、明里は言葉を繋げていく。
「でも、そうじゃなくて、ちゃんと昔したかった時と同じことを今の私にして欲しい。無理なお願いをしてるって、わかってはいるけれど、若い時の性欲を頑張って出して、あの日の後悔を全部償わせて欲しい。あなたが嫌だと拒むなら、受け入れるけれど、今まで私があなたのことを都合のいい人形のように扱ってきたんだから、今度は私を、あなたにとって都合のいい人形として扱ってほしい。激しく抱いて欲しいの」
そういうと、明里は男の体に登りはじめ、首筋にすがるようなキスを幾度も落とし始めた。
祭りのあとの消えかけた灰に、再び炎が灯る。その炎は否応なしに、勢いを増していく。男は最後の理性を振り絞って明里の肩を抱きはがし、まっすぐ目を見つめて言った。
「わかった。明里がそこまで言うなら、今晩は二人で沢山楽しもう」
次に男が我に返ると、隣で明里が気絶していた。
日常の清楚な外見からは想像もつかないほど、蠱惑的にひくひくと動く肢体を見つめて、男はやりすぎたと後悔する反面、これでよかったんだと、ようやく安心できた。
そっと明里の艶のある黒髪を撫でると、無意識にか明里はその手を掴んで指に吸い付いてきた。もっと、もっと、とねだるように。
男は再び、明里の身体に溺れることに決めた。
「――ねえ、今日も、シない?」
「またかよ、三日前にもしたばっかりじゃん」
「でも、あなたとするの、好きになっちゃって……」
「……わかったよ。俺も、嫌いじゃないしな」
「ほんと!?」
「ああ、ほんとだよ」
「やったぁ……えへへ、ねえ、あなた」
「ん?」
「愛してるよ」
「ああ、俺もだよ」
明日ありと 思ふ心の 仇桜 @devotion
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます