明日ありと 思ふ心の 仇桜

@devotion

夜半に嵐の

深夜3時。


男はグラスに安ワインを傾け、一息に呷る。

涙はとうの昔に枯れ果てたと思っていた。しかし、それゆえにか、行き場の無い感情は胸の奥を、ぐるぐる、ぐるぐる、巡るばかりで、一向に出ていってなどくれなかった。

手のひらで額を強く押さえてテーブルに肘をつく。そのまま、焼けるようなため息を鼻から長く吐き出す。ほんの少しの怒りと、抱えきれない絶望を混ぜようと試みて、幾度となく失敗を重ねてきた。

いくら気を紛らわせようとしても、それは所詮徒労にすぎないとわかっているからこそ、男はさらに、深い闇の中に足を引きずり込まれていく。


男には妻がいる。

籍を入れてからまもなく2年になる。新婚という熱い関係は、燃え上がる薪のように激しさを増すはずで、はじめは男もそのように考えていた。しかし、いざ始めてみた結婚生活は、男の想像をある一点においてことごとく裏切り続けていた。

妻の名は明里あかりという。明里は特に男を嫌っているわけではない。むしろ、明里の旦那を愛する心は一般的な「妻」のそれよりも強い方だと言える。そしてそれ自体は、男もよくよく承知していた。

白い紙にシミ。ワイシャツにコーヒー。


明里と付き合い始めたのは、大学生のころだった。

男と明里はちょうど2学年違っていた。同じ学部に明里が入ってきた時、男は明里の美しい黒髪、線の細い体つき、色白の肌にやや不釣り合いとも取れる大きな眼鏡と、その容姿にいたく惚れ込んだ。

男も男で、当時は女性に飢えてこそいたものの、しかしわざわざ自分以外の人間を徒に傷つけるようなことはすまいという分別は持ち合わせていた。だから明里に対しても、初めは優しく頼れる先輩の範囲を超えぬように、他の後輩たちとあからさまに大きな扱いの差をつけず、しかし要所要所ではさりげなく明里にアピールを重ねた。

男の粘り強い努力と、下心を強く抑えた紳士的な振る舞いから、1年も経つ頃にはだいぶん明里からの信頼を勝ち取れるようになった。

告白も、同棲の誘いも、すべて男から。明里はただそれに、YESと返すのみでよかった。

かくして、手狭になったアパートも思い切って2LDKの愛の巣へと転進するころには、男も真剣に就職と将来の展望を考え出すようになる。


先に「男は女性に飢えている」と書いた。

この男は異性に対する免疫が異常に少なかった。

小さいころから「水をこぼした」「外で迷子になった」などの些細なことを、逐一両親から否定されて育った。顔は十人並故に、学生時代は異性から相手にされない、色のない人生を送っていた。

原因を挙げれば限がないものの、どれも男の本質を突く決定打にはならない。小さな罪の積み重ねが、かれの羽を一枚、一枚とむしり取っていき、気がつけば今の男はまるで丸裸の雄鶏であった。

寒い、寒いとうごめく自分のこころに毛布をかけたくて、男はさらに酒を呷る。頭にアルコールが回り、思考は沼の底へと沈んでいく。

男の人生はいつだって機能不全だった。誰にも必要とされない人生は、男に奴隷根性を植え付けるには充分であった。明里との結婚も、男の献身の賜物に近い。

同棲を始めてからも、男は明里の代わりにできる限りのことをすべてやった。

彼の仕事は激務だったが、働いた分だけ収入に跳ね返ってくるものではあった。したがって彼は、明里に不自由をさせまいと自分の持てる全力を尽くした。

そしてどれほど疲れていても、明里に面倒を分散させるわけにはいかないと、体に鞭を打って家事をすべてこなした。この、すべて、というのは文字通りのすべて、であった。明里が仕事から帰ればその疲れを癒すために肩を揉み、アロマを焚き、ハーブティーを入れた。

それでもなお、明里は男のセックスの誘いに応じなかった。


曰く、学生時代は「怖くて不安だから」。

曰く、最終学年は「就活でそれどころではないから」。

曰く、卒業間近には「卒論の執筆が忙しいから」。

曰く、入社後は「仕事を覚えるのが大変で余裕がなくて疲れているから」。


男は、ただ明里に受け入れてもらいたかったのだろう。

ちっぽけで、愚かで、矮小な自分でも、たった一人、たった一つだけを受け入れてくれる存在さえいれば、それでよいと男は願い続けた。

しかし明里は、どれほど男があがいても、そのたった一つを受け入れる存在にはなりえない。男はとうとう、そのことを認めざるを得なかった。

認めてしまえば、あとは落ちるのも速い。

男は泣いた。

泣いた。

ただひたすらに泣いた。

酒に溺れて泣いた。

深く、深く、泣いた。

絶望の中、自分の心が凍え死ぬ音を聞いたような気がして、それがまたさらに遣る瀬無くて、泣くよりほかに道がなかった。


はじめからまちがえていた。

おれには、いきるけんりなんて、なかったんだ。

このよはしょせん、

このよはしょせん―――



それから6年が経った。

男はもちろん、明里もまもなく30歳を迎えようとしていた。


ここ数日、明里は自分の体に違和感を覚え始めていた。

仕事は順調、小さなステップだが昇進もした。

職責もその分重くはなったものの、明里の適正にも正しくマッチした仕事であり、献身的な夫のサポートも得て、順風満帆の人生を送っていた。

新卒の時と比べて、十分な余裕をもって仕事に取り組む日々。

その中で、時折感じる、下腹部へのほのかな熱。

入浴中に陰部を擦ったときの、ピリつくような感覚。

不思議だった。

自分の体がおかしいのかと、大学時代の友人に問い合わせたところ、

「なんだかんだ言ってアタシらもう30だしねー、体が子どもつくりたいーって言ってるのかもよ。ほら、女性ホルモンの関係ってあるらしいし。あのウブな明里もとうとう性欲に目覚めたのねー」

なんて茶化されたもので、からかわないでと軽く抗議はしたものの、気がかりが晴れぬまま調べたところどうやら本当にそういうことがあり得るらしい。


そういえば。

夫はある日を境に、わたしの体を求めてこなくなった。

これまでは興味もなかったし、特段好きというわけでもないから、適当な理由をつけてずっと後回しにさせていた。

夫は、時折辛そうな顔でわたしをみていた。

わたしのために何でもしてくれる夫。それが下心の混ざったものであったとしても、わたしにとってはありがたいことで、その分いろいろなお返しをしてきたつもりではあった。

でも、ここ最近は手料理の一つもふるまってあげられていない気がする。

今、わたしの大好きな夫は、わたしのことをどう思っているんだろう?


明里は試してみることにした。

いつもより早く帰って、夫の好物を並べて待ってみよう。

そうして、わたしの心だけでなく「体」も欲しがっているのか、聞いてみよう。

求めてきたら、応じよう。

明里はこの数年を経て、男を受け入れる覚悟ができるようになった。

決行は来週の金曜日。奇しくも2人の、結婚記念日。

理由も申し分ない。


計画の実行当日、明里の作戦はある程度までうまくいった。

ただ一つ、男が日付をまたぐまで帰ってこないこと以外は。

外からは空気をつんざくようなバイカーの排気音以外、なにも聞こえない。

明里は急に、世界に一人ぼっちで取り残されたような気になった。


このまま、愛しい夫が帰ってこなかったらどうしよう。

玄関先に灯った光と、夫の匂いで、明里の杞憂はすぐに打ち消された。

「ただいま、ってなんだ明里、まだ起きてたのか」

「なんだって言われても、今日、じゃなくて昨日、結婚記念日だったじゃない。待ってたんだから」

「え、ああ、ごめん、どうしても外せない仕事が急に入っちゃってさ、連絡入れたと思ったんだけど……げっ、送信できてねえや、ごめん」

スマホを取り出しメッセージアプリを開いた男は、画面を一瞥して渋面を作った。

「あなたにしては珍しいね」

「いやー……悪い。もしかして、家事やらせちゃった?」

「いいよ、たまには。いつもあなたがやってくれてるでしょ?料理、おいしくできたかわかんないけど、明日休みだし、遅いディナーにしない?」

「そう、だな。そうしようか。着替えてくるよ」

「ん、わたしも料理あたためなおすね」


明里は気がついていた。

男の顔色が悪く、体調があまり思わしくないことに。

明里は気がついていなかった。

男の体調不良の原因が、自分にあることに。



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