BWV858 ハーモニカと人魚

 音楽が、鳴っていました。とても甘美な調べです。海の底まで、聴こえてきました。誘われるように、導かれるように、上昇して、水面から顔を出して、耳を澄ませました。

 音楽は、か細く、淡く、続いています。奏でているのは、人でした。下半身に、二本の脚がある、珍妙な生物です。我が物顔で陸地を歩く、蛮族です。

 ひとりの青年が、口許に板のようなものをあてがって、せっせと息を吹き込んでいるようです。その息吹が、いかなる作用によってか、寂しくもの哀しい調べとなって、辺りの空気を震わせているようなのです。

 その音楽を聴いていると、なんだかわけもなく切なく、胸が苦しくなるのです。おかしな話です。海の底で聴いたときは、とても甘美な調べだったのに。近くまで来て耳にすると、そこには明らかな痛みがあるのです。消えてしまいたいと、だれかがこよなく願っているような痛み。それでいて、その音楽は、やっぱりとても綺麗なのです。

 美しいものは、痛みから生まれるんだよ。年老いたクラゲさんが、そう言っていたのを思い出しました。不思議なことを言うものだと、そのときは意味がわかりませんでした。痛みというものも、あまり実感できませんでした。いまは少しだけわかった気がします。だからクラゲさんは、人を刺すのが好きなのでしょうか。透きとおったご尊顔が、懐古的な口調と共に、懐かしく思い出されます。

 そこは町外れの海岸でした。町とは人の住む町のことで、海の底の町ではありません。まあ、どちらの喧騒からも離れているので、どちらのことでもいいのですが。その町に行ったことはありませんが、渡り鳥さんたちから噂話は聞いています。二本の脚で立つぼんやり者たちの、大きいだけが取り柄の醜い巣です。でも、渡り鳥さんたちの噂話には、音楽は出てきませんでした。いまここで、こんなふうに聴こえてくる、物狂おしい調べの切なさは。

 ずっとずっと、永く永く、海が乾いて水がなくなるその日まで、耳があるかぎり聴いていたいと思うほどだったのに、その音楽は、唐突に断ち切られてしまいました。目を開けてみると、青年は、呆気にとられたように、こちらを見つめています。どうやら音楽に惹かれて、不用意に近づきすぎてしまったようです。

「それ、なあに?」

 気恥ずかしさをごまかすように、青年がさっきまで口許にあてがっていたものを指差して、勇気を出して訊いてみました。

「ハーモニカ」

 青年は、なおもぽかんとした表情のまま、上の空で答えました。

「もっと、聴かせてよ」

 そう言って近づこうとすると、青年は悲鳴をあげて、持っていたものを投げ捨てて、二本の脚を動かして逃げてしまいました。

 忘れていました。二本の脚が下半身にある人は、二本の脚ではない下半身を見ると、ひどく怯えてしまうということを。

 とても残念に思いながら、青年が海岸に残していったそれを拾って、音楽の記憶とともに、形見のように海の底まで持ち帰りました。

 何度も何度も、青年の真似をして、音楽を奏でようとしてみました。ところが奇妙なことに、海の底ではそれはうまく音を出してくれないのです。ごぼごぼと泡にまみれるだけ。上昇して、水面から顔を出して吹くと、多少は音を立てますが、それは音楽とはいえませんでした。ちっとも面白くないものでした。

 美しいものは、痛みから生まれるんだよ。どこかに去ってしまった年老いたクラゲさんが、そう言っていたのを思い出しました。海の底には、痛みなどありません。痛みのない美しさしかありません。ですが、青年の忘れものに触れて、あの音楽を思い出すと、痛みとはなんなのか、少しだけわかるような、わかりたいと願うような、そんな気持ちになるのです。

 ハーモニカ。痛みに満ちた地上を歩けば、それを奏でることができるようになるのでしょうか。音楽という魔法に触れられるのでしょうか。青年の痛みも理解できるのでしょうか。

 人になりたいな。初めて、そんなことを思いました。それは恋だよ、と苦みばしったカメさんに嘲られても。

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