BWV858 コーヒーと天使

 朝のコーヒーに、天使の羽根が添えられていた。チャーミングな印だ。神はあなたを見棄てていませんよ、という趣旨の。

 羽根の尖端をコーヒーに浸し、カウンターテーブルに文字を書きつける。コーヒーのインクで、天使の羽根ペンで、不恰好な筆跡で、アーメンと。かくあれかし。

 カップの中のコーヒーを眺める。深淵と呼ぶにふさわしい、底深い闇。その水面に、ミルクの線条がひびのように走り、主の顔面がうっすらと浮き出ている。思わず吹き出しそうになった。神は様々な形にその姿を現される、とも言うが、コーヒーにうっすらと浮かぶぼやけた髭面は奇妙なまでに笑いを誘った。カフェインまみれの救世主。ありがたく飲み干させてもらう。

 ポケットから小銭を三枚出し、空になったカップに入れて、音を立てるように振り、ぱたん、とカップを逆さにしてカウンターテーブルに伏せた。数秒待ってから、そっとカップを持ち上げる。小銭は側面を地に接し、三枚が縦に並ぶようにして、アンバランスな塔のように佇立していた。三枚のうち、いちばん下の小銭を人差し指と中指でつまみ、素早く取り去る。上の二枚が、ぷるぷる震えながら空中に浮かんでいる。もう一方の手で、これまた人差し指と中指を使って、いちばん上の小銭も取り去る。空中に浮かんだ真ん中の一枚が、心細いような挙動で、重力に逆らいながら歯を食いしばるように、全身で奇跡をしがんでいる。

 その一枚を支えるように、右手と左手でつかまえた二枚を、右下と左下に配置する。コインが演じる組体操とも言うべき、安定したピラミッドの出来上がりだ。三位一体はかくも美しい。金銭というのは、こういう風に使うべきだ。なんぢら己がために財宝たからを天に積め。そんなところで、コーヒーのおかわりを頼むことにする。

「お代は、これで足りるかな?」

 もう一杯が注がれたところで、三枚のコインのピラミッドを示して、店員にウインクしながら訊ねてみる。

「足りませんね。あいにくの物価高ですから」

 店員は無愛想にそう言って、興味もなさそうにコインのピラミッドやアーメンの文字をひととおり見まわした。

「それは残念。せっかくの奇跡なのに。ところで、コーヒーに天使の羽根を添えたのはおたくかな?」

「いえ、心当りはありませんが」

「けっこうけっこう。人は無意識にメッセンジャーとなる。だれもが担い手であり、意味の化身というわけだな。ところで翼の生えた知人とか、おたくの周囲にはいなかった?」

「いませんね」

「そうかいそうかい。だれでも会うものなんだけどね、生涯に何度も」

「コーヒーの他に、なにかご注文は?」

「答えはいなだな。コーヒーだけで十分だよ。いつなるコーヒーは、一なるコーヒーのままに味わわなければ」

「お金、足りるんですか?」

「…………」

「無銭飲食ですか?」

「…………」

 二杯目のコーヒーの深淵なる水面に、またしても主の顔面が浮き出てきた。主はなにもかもを許すように、にっこりと鷹揚に微笑まれ、口をすぼめて、泡のように小銭をぽろん、ぽろん、と幾枚も吐き出した。カップから飛んできたコインが、三位一体のピラミッドの頂点に降り立ち、側面を接して、バベルの塔のようにどんどんと高く積み上がっていく。神に感謝。まさしく天に積む財宝たからだ。

「これなら足りるかな?」

 天井にまで伸びるコインのタワーを見上げて、店員はこっくりとうなずいた。こちらも頷き、二杯目のコーヒーを一息に飲み干した。

「おいしいコーヒーに最大級の感謝。この羽根は、ありがたくいただいていくよ。おたくにさいわいあれ」

 カウンターテーブルにコーヒーで書かれたアーメンの文字が薄れるのを一瞥してから、ゆっくりと店を出て、懐に羽根をしまい、涼しい空気を思うさま味わった。いい朝だ。空でも飛びたい気分だった。

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