BWV855 言葉の塔

 昔々、その昔。ずいぶん昔、果てしなく昔。言葉がひとつだった頃。高い高い、ずいぶん高い。果てしなく高い、塔が築かれた。

 塔の材料は、言葉だった、もちろん。

 夾雑物のない、純粋なる単一言語には、質量があり、堅固さがあり、柔軟性もあり、成長性さえもあり、あらゆる創造に向いていたからだ。ましてや、言葉は腐らない。これ以上に万能な素材があるだろうか。

 天まで届くなにかをつくりましょう。なにを? 人々は無言で語り合った。単一言語は神聖なる授かりものなので、みだりに使うべきものではないからだ。意思の疎通など、言葉を使うまでもない。

 塔だ。塔がいい。塔をつくりましょう。きっと天に触れられる。きっと天も喜んでくれる。きっと天からの返事が届く。満場一致で、そう決まった。

 まずは言葉で、土台が築かれた。入念に入念に。何年も何年もかけて。人々は大地に向かって叫び、囁き、語りかけ、刻み込んだ。義によって輝く礎石を埋め込んだ。これで万一にも揺らぐことはないだろう。それだけの高慢な自信が、種のように大地にばら蒔かれた。

 そこからめでたく、陽に向かって伸びる植物のように、言葉はゆっくりと起き上がり始めた。いまだ存在しない塔を囲むようにして煉瓦で足場が組まれ、そこに登った人々は見下ろすように中心に向かって言葉を投げかけつづけた。火山の噴火口のように煮えたぎる空白に言葉を次々に放り込んだ。怒声であり、罵声であり、嬌声であり、嘆声でもあった。言葉はみるみるうずたかく積み上げられていき、煉瓦の足場から見下ろしていたはずの人々は、いつのまにか言葉を見上げるようになっていた。もちろんこれにも何年も何年もかけた。足場で死んだまま白骨化している人々もいた。骨さえも言葉を語りつづけていた。頭蓋骨が震えるようにかたかたと喋り、言葉のよだれをなおも垂れ流していた。

 人々は煉瓦の足場を取り去り、地べたから言葉の塔を見上げ、もぐもぐと噛むようにして、翼の生えた言葉を口から勢いよく吐き出した。既に塔の頂上は見えない。ここから先は、飛翔する言葉たちに任せるしかない。口のなかで言葉の卵を生み、言葉の雛をかえし、言葉の鳥を空へと放った。もちろん飛び立てない言葉も数多くあった。口のなかで卵が無惨に潰れたり、雛のまま耐えられず死んでしまったり、翼が原形もとどめずひしゃげてしまったりと、痛ましい言葉の事故が数えきれないほどに起きた。だが人々は挫けなかった。何年も何年もかけて、言葉の鳥を放ちつづけた。鳥たちは塔の頂上までたどりつき、そこに身を横たえて、塔の伸長のためにいのちを捧げた。天の夢を見られると信じて眠った。

 塔は、ついに天に指先がひっかかるほど高くまでのびた。もう少しだ。あと一羽ぶん。言葉の鳥があと一羽、塔の頂上に身を横たえれば、天へと届く塔は完成する。何年も何年も何年もかけて、何人も何人も何人も死んだ果てに、人間が抱いたもっとも巨大な夢が、ついにかなう。

 最後の鳥が、ひとりの口許から放たれた。ひとつの言葉によってかたちづくられた、ひときわ優美で麗しい鳥。あまりの光栄と喜びに、その鳥の作り手は涙を流して立ったまま死んだ。きっとその方がよかったのだ。その作り手は結末を知らずに死ねたのだから。

 塔の頂上を目指して、夢の担い手たる最後の鳥は飛翔する。天へ、天へ、天へと向かって。単一言語で織られた翼で。

 雲を越え、大気を突き抜け、言葉の鳥は、言葉の塔の頂上に降り立った。まさに奇跡の一瞬である。脆い奇跡が瓦解する寸前の。

 鳥は、どこからか現れた、一にして多である御言葉みことばを聞いた。その途端、言葉の鳥はちぎれるように四散した。うずたかく積み上げられてきた言葉の鳥たちの死体の塔も、巨大なろうのようにただれて溶けて消え去った。煉瓦の足場から骨さえも投げかけつづけたという、人々のあらゆる声の堆積も、阿鼻叫喚の断末魔の叫びのような醜い不協和音と化してついえた。義によって輝いていたはずの礎石はひとたまりもなく根こそぎえぐられて、塔の跡地には、虐殺の後の静けさのような無だけがうずくまっていた。

 それが、天の答えだった。あまりの衝撃に、人々は言葉を忘れ、何年も何年もなにも生み出せない沈黙に陥った。それでもようやく打ちひしがれた人々が、痛みをだれかと分かち合うために、ぽつぽつと言葉をつぶやき始めると、それはもはやひとつの言葉ではなかったという。砕けた硝子のような、ばらばらの言葉だったという。

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