BWV855 死神の轍

 運ぶ、運ぶよ魂を。死に追いつかれた囚人めしうどを乗せて。

 雪道にわだち。それは死の跡。連れ去られた魂の遺言。馬車は二頭立て。馭者ぎょしゃは高笑い。くよ、どこまでも逝く者を乗せて。

 早朝の雪道を子どもたちがそぞろ歩く。頬は赤く、息は白く。黒い好奇心がわだちに目をとめる。

「これは何? だれが通った跡なのさ?」

 寝ぼけまなこの少年が、夢みるように呟く。

「死神だよ。昨夜、死神が通ったのさ!」

 道化顔の少年が、いたずらっぽく答える。

「嘘つき、嘘つき! 死神がこんな道を通るもんか!」

 無個性な少年が、個性を見咎めたように叫ぶ。

「いいや、まさしくここを通ったのさ。昨日、人が死んだんだ。そして死神がやって来た。雪の降り始めみたいに静かにやって来た。魂が溶けてしまう前に、大切に大切に、いくぶんわざとらしく、しかるべき場所へ運ぶために。昨日、人が死んだんだ。雪が降り止むみたいに、ぷっつりと息が絶えたんだ」

 道化顔の少年は、憑かれたように笑いつづけながら語った。彼の父親は昨日亡くなった。他の少年たちはそれを知らなかった。彼自身もある意味では知らなかった。

「死神の馬車は、音を立てないんだ。そして無音で笑っている。死神はいつも笑顔なんだよ。馬さえも笑っている。真面目な顔つきなんて絶対にしないんだ。人がどれだけ深刻になろうと、死神は陽気な表情を崩さない。臨終はしめやかに、末期まつごはおだやかに、送迎はかろやかに。それが死神のモットーでね。死んだ魂が最初に目にするのが、死神の百パーセントの笑顔なんだ。普通の人間は百パーセントの笑顔なんてできない。どれだけ楽しくても華やいでも、せいぜい七十パーセント、たいていは三、四十パーセント。おざなりな愛想笑いなんてものは最悪さ。よくてニパーセントの代物。生きている人間は、みんな死ぬからね。魂の底から笑うことができないんだ。百パーセントの感情なんてないんだよ。空気がないところで響く音楽みたいに、それは触れられない奇跡なんだ。でも、死神は違う。百パーセントの笑顔をいつも浮かべている。笑っている人を見ると、思わず笑っちゃうのが人の哀しいさがだよね。死んだ人の魂は、死ぬと思わず笑っちゃうんだ。だって目の前に百パーセントの笑顔があるんだからね。鼻がくっつきそうなくらい近くにだよ? 笑うなっていう方が難しい話だと思わない?」

 道化顔の少年は、笑いすぎて涙まで浮かべている。その笑顔が何パーセントの笑顔であるか、少年は知っているのだろうか。

「死者は死神にこうたずねるんだ。私、笑っていますか、ってね。死神はもちろんこう答えるんだ。ええ、あなたはいま、とてもいい笑顔で笑っていますよ、ってね。死者は思わず自分の顔を撫でる。自分の輪郭を確かめるみたいにね。夢から覚めたときに、目をしばたたかせたり、寝返りを打ったり、掌をじっと見つめたりするのと同じようなものだよ。自分と自分を同期させるんだ。ここにいるって、自分を納得させるんだ。自分が意識せずに、百パーセントの笑顔を浮かべていたら、どう思う? 死んだことよりも、笑っていることの方が、より奇妙で戸惑う事実だったとしたら、どう思う? そして死神はこう言うんだ。あなたの笑顔を、あなた自身が祝福できる場所へ、あなたをお連れします。さあ、こちらに。そして死者の手を取り、エスコートしてあげるんだ。死神はだれに対しても紳士だからね。思わず魂は恋をするんだ。死んだばかりで、右も左もわからないなかで、百パーセントの笑顔で手を握ってくれた、目の前の紳士をね。そりゃあ、ひとたまりもないよ。頼れる相手は他にいないんだからさ。男だろうが女だろうが関係ない。そうして喜んで自分から馬車に乗るのさ。まさしく最初の恋であり最後の恋だよね。それが死神の死へのはなむけなんだ。だからみんな、死ぬときは温かく死ねるんだよ。どれだけ外が寒くてひもじくても、内側は豊かで暖かって寸法さ。これこそが、永遠に溶けない淡雪のような、百パーセントの優しさってものじゃないかな? そう思わない?」

 早朝の雪道のわだちをたどりながら、頬は赤く、息は白く、少年たちは過ぎ去った死神を慕うように歩いていた。

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