BWV854 カーテンたちの沐浴

 静かな休日の、だれもいない部屋の、神聖きわまりない光のどけき窓辺の空白に、孤独なカーテンが淡くただよっていた、としよう。その揺らめきはだれにも見られることはなかった、としよう。

 昼下がりの匿名の風がカーテンを目覚めさせる。ピアノの音に興味をひかれた冬眠中の熊のような、貴重な目覚めだ。寝ぼけ眼でカーテンは揺れる。自分を揺らしているその風が、だれかの指先であることを理解するように。優しい光がカーテンの皮膚を通り抜ける。自分を構成する粒子のひとつひとつが、玉のように洗われるよう。

 夜のカーテンは、虚ろな闇に満たされていた。寂寥の詩篇をつぶやくように、壁と対話する病者のような姿態に身をまぎらわしていた。暗闇におけるカーテンの人格は、憂愁の残り香によって規定されていた。

 いま、昼下がりのカーテンに、その面影はない。解放された囚人のような、おずおずとした自由への戸惑い。それでもその表情はかぎりなく晴れやかだ。風に揺れるカーテンは、瞑目した地蔵のような枯淡の情趣に達している。素朴で若々しい悟り。儚い退屈。

 風に名前がないように、カーテンにも名前はない。溶け合うように、触れ合うだけだ。窓という奇跡が、その出会いを導いてくれた。きょう、ここで、この光の只中で、この風に揺れるということ。一瞬の結婚のようなものだ。秒単位で交わされた契り。触れて、別れて、また触れる。揺れるたびに、カーテンの婚姻は震えた。

 カーテンは、ここにいるのはわたしだ、と叫んだりはしない。ここに揺れているのはわたしのこころだ、と涙を流したりはしない。この風に触れられているのはわたしの魂だ、と信じたりはしない。カーテンは人間の役割を奪ったりはしないから。カーテンは人間よりも上手く窓辺に適応しているから。

 カーテンはこの世に遍在する。この世にあふれる窓の伴侶として。だれもいない部屋の、静かな窓辺で、だれにも見られず、だれにも気づかれず、あなたの認識の隣、あなたの認識の背後で、神聖なる空虚と光と風をはらんで、無数のカーテンが揺れている。まことに天の国は近い。

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