BWV853 待つ猫

 うずくまった猫がいて。路上で雨に打たれていた。鞭で打たれる苦行者のようだった。

 じっと何かを待っている。雨にかまわず。試練に挫けず。動かないことが、唯一の道でもあるかのように。

 毛並みはしとどに濡れそぼつ。ボロ雑巾を縫い合わせた枕のような有り様で、猫は地べたにうずくまり、待つことをやめない。灰色の空に、湿った空気。景気のよさそうな雲行きではない。待つのが心地いい日和ではない。

 猫は憂鬱に沈んでいるのだろうか。そう仮定してみる。生きるのが嫌になったのかもしれない。それなら猫が待つのは死か。だが、死を待つような動物はいない。人間もだ。死を待っているように見えることはある。でも、死は待てるような対象ではない。わからなさに身を奪われて、わからなさに硬直しているだけだ。死は待てない。死ではない何かを待って、結果的に死んでいるだけだ。

 憂鬱というより、寂しさか。他人が恋しくなったのかもしれない。それなら猫が待つのは仲間か。なるほどたしかに、仲間なら待てる。現れないともかぎらない。だが、こころの底から通じあえる他者など、世界をあまねく探したところで、五指に満たない。ひとりだっているかどうか。それは、死よりも出会う可能性の稀少な、存在するかもわからない、まれびとのごとき奇跡ではないか。雨のなか、そんな奇跡にだけ期待するならば、たしかに息を潜めてうずくまりたくもなるだろう。

 死は待てないが、先で必ず出会うものではある。いるかもわからない仲間や伴侶よりも、確実性のある運命だ。他者との出会いは幻かもしれないが、死は幻ではない。ばったり出くわしたとき、むしろそれまでのすべての方が、幻に裏返ってしまうのかもしれない。

 やっぱり猫は、死を待っているのか。待つ意味もわからず、待てるのかもわからず、雨だけが唯一の触れられる現実で。それは人間ではない。猫は人間ではない。人間のようには考えない。人間のようには待たない。雨に打たれているだけだ。言葉をつむぐ余計な視線にさらされているだけだ。

 うずくまった猫がいて。路上で雨に打たれていて。なにかを待っているように見えて。死は未来であるらしく、雨は現在であるらしかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る