BWV852 僕が化粧を覚えた日

 自分に顔があるなんて、長いあいだ信じられなかった。もちろん顔はある。人間だから。首の上に載っかっている。でも、それって、本当に僕の顔なんだろうか。ずっと実感がわかなかった。

 あなた、綺麗な顔をしているね。

 そんなことをたまに言われた。褒め言葉らしい。まったく嬉しくない。借りものの筆箱を褒められたような気分。ソレハ、ボクトハ、カンケイアリマセン。

 鏡を見る。のっぺらぼうが映っている。もちろん眼があり鼻があり口がある。でも、意味がない。自分にとって、自分の顔は意味がない。魅力もない。美しくもない。綺麗だとしたら、それはのっぺらぼうの綺麗さだ。つるつるの平坦な白紙の顔面は、綺麗といえば綺麗だろう。なにもない荒野のような綺麗さだ。退屈の吹きすさぶ味気ない不毛地帯だ。

 よく知らない人から、よくわからない理由で告白された。僕のことが好きだという。ろくに話したこともないのに。なぜ、と訊けば、いろいろと不明瞭で要領を得ない冗長な答えばかり返ってきたが、簡潔にまとめるなら、顔が好みだから、ということらしい。

 ボクハ、ボクノカオガ、キライデス。ダカラ、アナタトハ、キガアイマセン。

 そう答えるしかなかった。好みの合わない相手と、楽しく過ごせるわけがない。僕の顔を好ましく感じる人は、僕にとっては嫌悪の対象だ。顔の価値体系に汚染された不穏分子だ。できれば近づかないでほしい。

 顔ってなんなのだろう。綺麗だったら、なんなのだろう。醜かったら、なんなのだろう。意味がないじゃないか。単なる頭蓋の凹凸にすぎないのに。

 しかし、それならなぜ僕は僕の顔が嫌いなのだろう。僕にとって顔が無意味なら、そんなもの無視すればいいだけの話だ。嫌うということは、不本意ながら、こころを動かされているということだ。それが癪に障った。

 僕はある日、気まぐれで自分の顔を殴ってみた。嫌いなものは、破壊してみるにかぎる。鼻血が出て、唇が切れた。だが、その程度だった。自分で自分をくすぐるのと一緒で、自分で自分を殴るのは、十全に効力を発揮しないもどかしさがある。

 だが、鏡を見てみてはっとした。僕の流す血が、僕の顔を彩っている。そこには、のっぺらぼうではない顔があった。僕が生まれてこのかた見出だしたことのない意味が、呼び覚ますようにちらついていた。

 それは、啓示だった。降ってわいたインスピレーションだった。言葉を失うほど、僕はその発見に驚いてしまった。

 僕は知識のないまま、手当たり次第、目につく化粧道具を買いあさった。お姉さんから頼まれたの? などと、余計なことを訊いてくる店員がいたが、無視した。こころが急き立てられるように、辺りの景色が遠ざかっていく。生まれる前のような昂揚。初犯の爆弾魔のように舞い上がっている。

 鏡を見ながら、僕は僕の顔をつくりかえていった。下地を塗り、ファンデーションを塗り、コンシーラーを塗り、パウダーを塗り、塗れるものはなんでも塗りたくった。ペンシルで眉を描き足し、アイシャドウで目元を隈どり、チークを入れて頬を色づかせた。僕の無機質で鈍重な顔が、いのちを持った顔になっていく。白紙にも意味があったのだ。そこには自由を上書きすることができたのだ。

 僕は喜び勇んで、誇るように、晴れがましい気持ちで外に飛び出した。すれ違う人々が、僕を見ている。物珍しげに、呆れるように、見下すように僕を見ている。

 そのまま、僕は知り合いの集まりに顔を出した。僕に意味不明な告白をした相手もそこにいる。その子は僕の顔を目にして、見てはいけないものを見たような引き攣った表情を浮かべた。他の知り合いたちは、僕の顔を見て爆笑した。なにかの冗談だと思ったらしい。

 きっと嘲りに変わるはずの爆笑を真正面から浴びせられながら、ようやく僕は僕の顔を手に入れたのだと、暗いよろこびに浸っていた。

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