BWV850 水上ランナー
昔々、メシアは水上を歩いたそうだけど、いま目の前で湖の上を全力疾走しているあのランナーは、現代のメシアなのだろうか?
早朝の散歩で、まさか救世主に遭遇するとは、未来というのはわからないものだ。網を打っていたら声をかけられたというペテロも、似たような気分だったのか。
とはいえ、あのランナーは一心不乱、脇目も振らず水上を走るばかりで、こちらをスカウトするような気配は一向にない。世界を救いそうな感じでもない。人の子として罪を贖ってくれそうもない。ただひたすらに走っている。見るかぎり勤勉なジョガーである。もとい、ランナーである。先ほどは全力疾走だったが、いまは悠々としたペースで湖をまわっている。走っているのが水上でなかったら、目を止めようとも思わない景物である。
もしや本当にただのランナーで、この湖は膝までもない水たまりにすぎないのか?
試しに片足を踏み入れてみると、見たまえ、ずぶずぶと足は沈んでいくではないか。靴下の中まで冷たく濡れて、不快であることこの上ない。やってみて後悔した。主を試みてはならない。
なにはともあれ、この湖は確かに湖で、常人がその上を歩けるものではない。もちろん走れるものでもない。あのランナーに何かしらの奇跡が働いているのは確実だ。羨ましい。自分にもその奇跡があれば、職場への近道もわけないというものだ。通勤時間がほんの少しだけコンパクトになる。
しかし、あのランナーが現代のメシアだとしても、なぜ水上を走っているのだろう? 暇なのだろうか。昔々のメシアも、なぜ水上を歩いたのだろう。病人を癒す奇跡に比べたら、ずいぶん意味のない奇跡である。つまりメシアは遊んでおられるのだろう。そう考えるとわくわくした。
遊びの神学を沈黙のうちに理解した自分は、走るメシアがこちらに近づいてきたときも、変わらず冷静でいられた。弟子にしてください、とも、世界を救ってください、とも、昨晩から調子の悪いこの聞き分けのないお腹を治してください、とも、頼まずにいられた。代わりに言ったのはこの一言だ。
「元気?」
メシアの返答も至極シンプル。
「元気!」
こうしてわれわれの教理問答は完結した。いまも相変わらず、メシアは湖を走っている。毎朝、それを見ながら散歩して思うのだ。世界も人間も救わず、殺されることなく走っているメシアというのも、悪くないものだな、と。
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