BWV849 侘しい路地裏

 天気は灰色、薄曇り。内面みたいな空模様。自分を振り返るにはいい季節。

 教育。受けたことがない。学校に行ったことがないから。

 仕事。持ったことがない。社会に認められたことがないから。

 友人。存在したことがない。他人と打ち解けられたことがないから。

 要するに自分は、見事なまでに素寒貧。寒空のように侘しい身分。当然のごとく住居もない。路地裏のねぐらを別とするなら。しかし、これを住居と呼んでいいのやら。西瓜すいかを果物と呼んでいいなら、路地裏の侘び住まいも住居と呼んでいいのかもしれない。果実的野菜にちなみ、住居的野外。青空学級ならぬ、青空家屋。もちろん一時的なものだ。またぞろ別の塒に移ることもあるだろう。ここで死なないかぎりは旅が続く。三界に家なし、浮浪者に安息なし。居場所のない人間は、息をするのも後ろめたい。空気に無言で責められるからだ。

 居場所は「普通」が占めている。おびただしい「普通」が自分を除外する。「普通」に溶けなければ人間と認められない。水に溶けない油のように、余計者は人群じんぐんから浮き上がる。カスと呼ぶものもいるし、クズと呼ぶものもいるし、生産性のない不良品と呼ぶものもいる。自分が言ったわけではない。「普通」が投げつけてきた言葉そのままだ。

 言葉といえば、いろんな言葉をこれまで浴びてきた。「普通」が垂れ流す軽蔑もあれば、「奇妙」がもたらす優しさもあった。教育を受けてない自分がいちばん言葉を学んだ(盗んだ)のは、「異常」であった香具師やしじみた浮浪者からだ。

 友人といえるほどのまともな意志疎通はできなかったが、隣でずっとひとりで喋りつづけていた。妙に学術的な語彙や、詩的な比喩を散弾のように独語にまぶして、自分で自分を笑わせていた。あんまり楽しそうだから、言葉を真似れば自分も楽しくなれるかと、錯覚したのが運の尽き。なおさら「普通」から遠ざかるだけだった。

 何年も一緒にいた時期もあったが、そのご機嫌な浮浪者もいまはいない。雲みたいにある日いなくなった。どこかでまだ生きているのか、どこかでもう死んでしまったのか、どこかで「普通」の側に戻れたのか、皆目見当もつかない。元気でやっていればいいと思う。この世であれあの世であれ。「普通」であれ「異常」であれ。空のお気に召すままに。

 つまり、空なのである。まいにち空に感動している。路地裏から人の流れを覗いてみても、だれも空に感動していない。だれも空に熱狂していない。屋根があるのを当然だと受け入れている連中だからか? もっと空は驚かれていい。「普通」な日が一日たりともない。いつだって平然と「異常」で「広大」で「無限」で「神聖」だ。そんな代物が頭の上にいつもあるなんて、信じられるか?

 キョウ、ノ、クモリゾラ、ハ、トッテモ、トッテモ、ゴキゲン、デスネ。

 あの香具師じみた浮浪者に、もういちどそれを伝えられたらいいのにと思う。

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