BWV849 冷たい地下室
地下に囚われて、もう十年以上が経つ。十年以上が経ったらしい。あまり実感はない。身体はたしかに、大きくなったが。
最初は、親と呼ばれる人を怒らせた、罰だった。そのはずだ。なぜ怒らせたかは、覚えていない。ごくごくつまらないことだったのだろう。その罰がまさか、人生の半分以上を占めることになるとは、思いもよらなかった。
食事は、天井に空いた穴から、吊り下げられたバケツに入れられて与えられる。一日三度。たまに忘れられるのか、一日一度のときもある。ゼロという日はないので、それなりに良心的なのか。メニューは豊富とはいえないが、栄養は足りているらしい。今日まで死んではいないから。飲料水も、ペットボトル入りのものがことあるごとに穴から投げ込まれてくるので、不足はない。
親と呼ばれる人の名前も、覚えていない。親、としか呼ばない。というか、声に出して呼ぶことはない。天井に空いた穴から顔が覗くと、ああ、親だ、と考えるだけだ。相手もこちらを呼ぶことはない。自分に名前があったかも覚えていない。
声ももう、出し方を忘れかけている。使う用途がないからだ。昔は独り言を言ったり、歌を歌ったりしていたが、それもしばらく前からやらなくなった。しばらく前というのがどれくらい前なのか、よくわからない。数ヶ月だったか数年だったか。カレンダーもここにはないし、日数を数えているわけでもない。意味がないからだ。
ここにはあまり物がない。便器はある。机はある。寝台はある。照明はある。そしてなんと、時計もある。意味がないのに。朝だろうが夜だろうが、ここには関係ないのに。つまり贅沢品だ。ここにもささやかな贅沢はあるのだ。これがあるおかげで、一日という単位を忘れずに済むし、終日ぼんやりと針の動きを眺めて暇をつぶせる。電池が切れたら、時計を食事用のバケツに入れておく。回収されて、電池を交換した時計が、次の食事の際に届けられる。正確な時刻を指しているのかはわからない。それはどうでもいい。針が動きさえすればいいのだ。地下には動くものがほとんどないから、それが数少ない娯楽なのだ。
時計の針を眺める以外に、この地下室でやれることは、それほど多くない。食事と排泄。睡眠。思考。そして運動。自分の人生は、それで尽くされる。
運動といっても、地下室はそれほど広くはないし、道具や相手があるわけでもないから、必然的にパターンは限られてくる。地下室の四隅を歩きまわったり、間歇的に跳躍したり、寝台に寝転がって身体をぐにゃぐにゃ動かしつづけたり、空中を拳で殴りつづけたり。そんなところだ。
道具はないといったが、飲料水のペットボトルならある。まだ声をそれなりに使っていた頃、親と呼ばれる人に頼んで、ハサミやヒモなど、工作道具を与えてもらった。それを使って、空のペットボトルを組み合わせて、自分と同じくらいの背丈の、ペットボトル人間を作った。名前をつけたり話しかけたり、しばらくはそれと遊んでいたが――数ヶ月だったか数年だったか――、独り言や歌と同じように、飽きてしまったので殺してしまった。ペットボトル人間の残骸は、その他のペットボトルと同様に、バケツに入れて回収してもらった。ハサミやヒモも返却した。それで自分を殺すことも出来たと、思い当たったのはしばらく経ってからで――数ヶ月だったか数年だったか――、その頃には親と呼ばれる人もその可能性に気づいたのか、危険な道具は与えてくれなくなった。
とはいえ、それはあくまで単なる可能性のひとつであって、どうしても死にたければ断食でもすればいい。それもけっこうなことだ。いまはまだ死んでいない。惰性でとりあえず生きている。
時計を見ることにいまだ飽きないのは、時間に飽きないことと同義だろうか。ペットボトル人間は動かない。時計の針は動く。それならやっぱり、時計の方が面白い。自分がつくった玩具より、時計が体現する世界の方が、より豊かだからだ。
そんなわけで、それからもそれなりに充実した日々をしばらく送っていると――数ヶ月だったか数年だったか――、ある日に親と呼ばれる人が、気まぐれなのかなんなのか、天井の穴から顔を出して、こう言った。
「誕生日おめでとう」
それに続けて、こちらのいまの年齢を告げた。その告知によって、地下暮らしを始めて十年以上が経ったことがわかった。
「おまえ、ここから出たいか?」
親と呼ばれる人が、なにを血迷ったのかそう問いかけた。十年以上経ったと言われてみると、親と呼ばれる人の顔も、たしかに以前より老いていた。時計の針ほどわかりやすくはないが、そこにも時間は刻まれていた。とはいえ、だからどうだというのだろう。こいつもペットボトル人間と大差ない。なんの興味もわいてこない。
「いや、べつに」
声の出し方はまだ覚えていた。気づけばそう答えていた。いまさら外に出るなんて、そちらの方がよほど罰だ。地上に時計より面白いものがあるとも思えない。
「そうか」
そう言い残して、親と呼ばれる人は、天井の穴から顔を引っ込めた。これが最後の会話だったのかもしれない。
自分の電池がいつか切れたら、もっと大きなバケツはあるのだろうか?
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