BWV848 スキップ、スキップ、スキップ

 あなたが最後にしたスキップを思い出してほしい。昨日のこと? 何年も前? 生まれてこの方したことがない? でもきっと、こころが跳ねた日はあるでしょう? その軽やかさがスキップの精髄と、理解した上で聞いてほしい。

 これはスキップの説明書ではないので、スキップがいかなる動作を指すものなのか、逐一述べたりはしないでおこう。片足をあげた体勢で、軸足によって前方に跳躍し、着地した後、今度は逆の足を軸足にして――というような記述はやめておこう。スキップに似つかわしくない、鈍重な説明口調である。スキップは、身体によって、こころによって、直感的に理解するものである。もしも可能であるならば、実際にスキップを楽しみながら、この文章を読んでほしい。跳ねながら読めば、言葉も自然に躍るというものだ。スキップ酔いは、まだしも車酔いよりは後味がいい。

 スキップの適齢期、もしくは全盛期はいつであるか? 満場一致で幼少期であろう。子どものスキップにはカモシカのようなしなやかさがある。惚れ惚れとするほど美しい。自然のつくりだした驚異である。多くの人間は、この時期が過ぎ去ると同時に、ついでのようにスキップからも引退する。

 とはいえ大人がスキップをしてはいけないというルールはない。不文律ならあるかもしれない。自意識と他者による白眼視は、スキップを萎縮させる最大の敵である。紳士淑女によるスキップは、それが罪のないものであっても、しかめっ面の社会から粛清されてしまう。繁華街の雑踏を見渡して、めぼしいスキップをどれだけ見つけられるだろうか。老人のスキップなどともなれば、雪男と同じくらいの希少価値がある。あなたは見たことがあるだろうか? 子どものスキップとは一味違う、不自然を突き抜けた一抹の爽やかさを感じることだろう。群衆が跳ねたってかまわないのに、群衆はいつもつまらなそうに歩く。子どももいつかは群衆に溶け込む。スキップの居場所は日に日に減っていく。

 とはいえ魂は跳ねることを欲する。あなたがスキップをしなくなって久しいとしても、別のスキップならしているはずだ。意味深な謎かけをしているわけではない。あなたのこころが動いたならば、それは無意識のスキップなのだ。あなたのこころが満たされないなら、必要なのはスキップなのだ。草原に澄み渡るひとしずくのスキップ。雨の降りしきる土曜日のスキップ。哀しみを乗り越えた詩のようなスキップ。いずれもすべて美しい。歩行を遊びに変えるのがスキップだ。あなたの日々が跳ねることがスキップだ。

 だれもがスキップに一家言もつ。そのひとつを述べて終わりとしよう。天国では、きっと人々は自由にスキップする。あらゆる鎖から解き放たれたスキップ。羽の生えたように軽やかなスキップ。いまだかつて、人間がお目にかかったことのない光景である。老いも若きも強きも弱きも、こころあるものすべてスキップ。楽園とはそういうものであろう。

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