BWV848 ノック、ノック、ノック
期待を込めて、願いを込めて、叩く、叩く、扉を叩く。ドラムのように、シンバルのように。ノック、ノック、果てしなくノック。
リズミカルなノックの演奏者は、幼い子ども。いつだって子ども。純真無垢なる意固地さで、ノック、ノック、
周りは白。どこまでも白。床なのか壁なのか天井なのかわからない白が、水平線まで続いている。本当は白ではないのかもしれない。空間ですらないのかもしれない。その子の認識では空間で、白くて広くて、音がある。音があるなら、空気がある。本当は空気ではないのかもしれない。それでも子どもには聴こえている。ノック、ノック、ノックの音が。空気の震える音楽が。
無のような漠たる白の大洋に、ぽつんとひとつ、扉だけ。孤独で奇妙な扉の前に、ぽつんとひとり、目覚めた子ども。やるべきことは? ノック、ノック、もちろんノック。
扉に鍵はかかっているのか? 扉の向こうにだれかはいるのか? 確かめる前に、身体が動く。理屈より先に、踊りがあるように。ノック、ノック、ひたすらにノック。
子どもには存在の来歴がない。理由がない。記憶もない。気がついたら、ここにいた。それでも知っていることはある。ここは世界と世界のはざまだということ。以前の世界に、自分はいられなくなったということ。扉の向こうに、自分は行かなければならないということ。だからノック。激しくノック。生まれた赤子の泣き声のように。憂鬱な哲学者の疑問のように。腕が疲れてしまうまで。扉が壊れてしまうまで。息をするようにノック、ノック、ノック。
ノックは続く。果てしなく続く。答えはまだない。扉はまだ開かない。永遠のようなノックのあいだ、子どもは思い、考える。自分は本当に存在しているのか? ノックの音だけが、幽霊のように、だれもいない世界に響いて、それを耳にする者もいないのかもしれない。扉の向こうにも、だれもいないのかもしれない。扉なんて、初めからなかったのかもしれない。自分なんて、初めからいなかったのかもしれない。
それでもいまは、聴こえている。ノックの音が。自分の奏でる音楽が。絶えない鼓動のあらわれのように。自分が以前に存在した世界にも、音楽があり、言葉があった。子どもはうつろに思い出す。われノックする、故にわれあり。求めよ、さらば開かれん。ちょっと違ったかもしれない。子どもは間違えるものだから。それでも音楽は楽しいもの。だれかに
だからノック。心音のようにノック。かつてに聴いたはずのすべての音楽を思い出せるように。かつてに出会ったはずのすべての人々を思い出せるように。かつてに見つけたはずのすべての愛を思い出せるように。期待を込めて、願いを込めて、夢みるように、ノック、ノック、幼いノック。
その音楽は、優しく、儚く、少しだけ寂しい。世界と世界のはざまに響いて、答えるものもなく、こころを動かすものもなく、だれにも聴かれず消えていくのは、少しだけ惜しい。
だからいつか、ノックは報われるべきはずであるし、扉は開かれるべきはずである。
扉の向こうにいるだれかは、きっとすべてに答えてくれる。どうして子どもは世界にいられなくなったのか。いかなる世界に子どもは向かうのか。すべての死せる過去を含んだノックが、すべての生まれざる未来の音楽に変わるとき、きっと扉は開かれる。
だからそのとき、その瞬間まで、ノック、ノック、祈るようにノック。
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