第141話 リアとして

 フランとドルフが聖都ラフィリアに戻る日が決まり、その翌日に夕食へ出かける約束をした。

 それからというもの、毎日毎日カレンダーを眺める日々となり、とても楽しみに一か月を過ごした。


 久しぶりの再会だ。まずは何を話そうかと考えて、自由時間のほとんどを空想に費やした。侍女であるドロシーを呆れさせるほどには足が地に着いていない。

 こんなに誰かを待ちわびるのはこの一年を通して初めてで、自分でも生き生きしていると感じられるほどだ。何をしていてもやる気がみなぎり、勉強にもより一層熱が入る。


 そして驚くことに、気合いが入っているのはリアだけではない。何故かボーマン夫妻までもが臨戦態勢なのだ。リア以上の気迫を持っているのは間違いない。

 ディナーに行くだけなのに、ボーマンはドレスを新調すると言って聞かないし、キャロライナもいつになく真剣にドレスや装飾品を選んでくれた。

 変わる変わるドレスの試着を繰り返し、ようやく夫人の満足がいくドレスと巡り会えた時には日が沈んでいた。とても疲れたが、キャロライナと意見を出し合って決める工程は意外と楽しかった。


 夫妻の入魂具合に圧倒されながらも日々をこなし、とうとう今日がその当日。

 直前になると楽しさよりも緊張が勝る。身支度を整え、自室で待つ時間はひたすらに鼓動が早くて何も手につかない。

 すっかり夜のとばりが下りた後の窓ガラスは室内の光を反射し、着飾ったリアを映す。

 ブラウンのカクテルドレスを着て髪をまとめ上げた自分が、そわそわと動き回っている。その様はラフィリアとして形無しだ。

 客観的に己の醜態を目に入れたリアは、窓辺にあるソファにどさりと腰を下ろした。


 壁にかかった時計に目をやれば、約束の時間まであと十五分。

 彼らは家が決まるまで、しばらくホテルで暮らすらしく、今日はわざわざリアを迎えに来てくれるのだ。

 いつもなら座り心地の良いソファは今日に限ってしっくり来ず、また意味も無く室内を徘徊することになった。


「リア様、ジェフリー様と出かける時よりも落ち着きがないですよ」


 立ったり座ったり、バッグの中身を何度も確認していたらドロシーに苦笑された。


「そう、かな?」


 他人に指摘されたのが恥ずかしくて平静を装ってみるが、きっと意味を成していない。


「大丈夫ですよ、リア様。お二人はきっと、お変わりなく接してくださるでしょうから」

「でも、なんて言うか、私が自分でもわかるくらい変わったから、どういう反応をされるのか怖いっていうか……」


 しどろもどろ不安を口にすれば、ドロシーはそんな事かと言わんばかりに腰へ手を当て、リアの前にどっしりと立った。その瞳は自信たっぷりだ。


「フランシス様もアードルフ様も驚かれるかもしれませんが、それは良い方向ですよ。失望はあり得ません。わたしが保証します。万が一、お二人が落胆されましたら、わたしはリア様の侍女を辞めます」

「それは無しよ! ドロシーに辞められたら困るわ」

「もちろん、わたしは辞める気などありません。それだけお二人がリア様に悪い感情を持つなんてあり得ない、という事です」


 ドロシーの太鼓判には頷きたくなるほどの説得力がある。ここは彼女を全面的に信用し、一人で色々と思い悩むのはやめた。気分を変えようと、ドロシーを伴って自室の前室へ移動し、お茶をする時に使っているテーブルへと向かい合わせに腰掛けた。気を紛らわせるようにして、全く関係のないことを話しながらその時を待つ。

 今後の茶会や舞踏会の予定、それに参加するご令嬢の噂話など、いつものように会話の川は滞りなく流れていく。

 そのうちに部屋の扉が叩かれ、フランとドルフが到着したとメイドが伝えに来てくれた。


「さあ、リア様。参りましょうか」


 少しだけ開けた扉から伝言を受け取ったドロシーはリアを振り返る。

 とうとうこの時が来た。一年ぶりに彼らと会うのはもうすぐ。嬉しいはずなのに、手のひらがじっとりと汗ばむ。どんなに身分の高い人と会う時よりも緊張する。ほんの一年前は毎日顔を合わせていたのに、ずいぶん遠い存在になってしまったものだと、高鳴る鼓動に手を当てた。


 ドロシーと共に階段を降りて応接室へ向かう。歩き慣れているはずの廊下が知らない場所のように感じられ、歩調が安定しない。


 玄関ロビーから左側に折れればすぐに目的の部屋はあるのだが、一歩近づく度に頭が真っ白になっていく。

 本当に彼らはいるのか、リアを見て幻滅してしまうのではないか。

 次から次へと小さな不安が泡のように発生し、それらは互いを呑み込んで大きな恐怖へと変貌を遂げる。


 部屋の前で足が竦み、一歩も動けなくなった。ずっと夢見ていた瞬間だというのに頬は強張り、まるで断罪される罪人のようだ。

 なんの変哲もない真っ白な扉が、今はすべてを拒絶する分厚い壁に見える。


 急に気勢がしぼみ、逃亡も視野に入れ始めた意気地のないリアの背に、突如強い衝撃が走った。

 犯人はドロシーだ。とんでもない力で叩かれた。息がつかえるほどの威力に、何をするんだと睨みつける。

 信頼の置ける侍女はそれをまったく意に介さず、涼しい顔のまま深く一礼した。


「リア様、行ってらっしゃいませ。わたしはあなた様にお仕えしておりますが、ここは引きます。お二人との再会にわたしがいるのは野暮でしょうから」


 さらりと空駆ける風のように言い放ち、笑顔を残してきびすを返す。決して後ろは振り返らず、速足で小さくなる背中は曲がり角に消えた。


 はたから見れば、なんて無礼な侍女だと顰蹙を買いそうだが、彼女は緊張しきって弱気になっているリアに喝を入れるため、あえて突き放すようにしたのだ。

 その気遣いをありがたく受け取り、勇気に変えて扉を叩いた。


 控えめで硬質な音がリアの存在を知らせる。

 一秒でも早く会いたい。ただそれだけを想って返事を待つ。その時間すら、もどかしい。

 はい、という柔らかな声が耳に入った瞬間、我慢できずに扉を体で押すようにして中へ雪崩れ込んだ。よろめいた体勢を戻して顔を前に向ければ、ずっと会いたかった二人がそこにはいた。


 一年前と変わらない、懐かしい姿。

 来客を迎え入れようと立ち上がったところだったのだろうか、二人はソファの向こうからリアと目を合わせた。


 彼らの服装はよく見知った大教会の制服ではない分、とても新鮮に感じられる。長い間会っていなかったので、実体と想像がかけ離れてしまっているかもしれないと一種の怖さを抱えていたが、それは杞憂だった。フランは相変わらず伸ばした髪を一つで結わえているし、ドルフの三白眼による目つきの鋭さも健在だ。


 黒髪と紺色の瞳が印象的な兄弟は、よく似ている整った顔で同じような表情を作り出した。瞠目し、リアに見入っている。

 何を言おうか、どんな態度で会おうかと色々考えていたけれど、実際は何も言葉が出てこなかった。


 そのままためらいがちに近づけば、二人はソファを回り込んで駆け寄ってきた。

 お互いの存在を確かめるように、無言のまま見つめ合う。数秒間の静けさは余計な感情を取り払い、喜びだけを全身に響かせる。

 想像していた感動的な再会とは程遠いが、それでも充分だった。


「久しぶりね」


 口をついて出たのは、そんなありきたりな挨拶だった。

 みるみるうちに二人の表情が明るく花咲いていく。ずっとこの瞬間を待ち焦がれていたかのように。


「リアがあんまりにも綺麗になっていたから、緊張しちゃった」


 苦笑を交えるフランは軽く肩を竦めた。理性では抑えきれない幸福が照れ隠しを上回っていて、リアは小さく笑ってしまった。

 感情を表に出さないフランが自分の前では心の内をさらけ出してくれている。その親密度合いに、嫌われたら、という懸念の暗雲は完全に消え去った。


「ボーマン様から話は聞いてたけど、思った以上だった。すげー可愛い」


 ドルフの率直な感想にはリアの方が照れてしまう。顔が熱い。

 この二人には調子を狂わされてばかりだ。でも、それが楽しくて愛おしい。


 もう失くしたと思っていた一年前までの『リア』がすっかり蘇って定着する。

 きっと、今の顔は誰に見せるものよりも輝いているだろう。

 ほんの数秒でほだされた自分を隠すため、咳をするふりをして緩む口元を誤魔化した。


「あなたたちに言われたら嫌味よ」

「そんなこと言わないで。本当の事だよ」

「そうそう! 俺は嘘なんか言わねえからな!」


 誰からともなく、ふふっ、と笑い合う。

 少しも取り繕わずに、『リア』として接してくれている事にひどく安堵を覚える。


 皆、美しいだとか神々しいだとか、歯の浮くような台詞せりふでリアを褒め称えるが、それは『ラフィリア』に対しての賛辞であり、いつも虚しさが胸の奥に巣食っていた。

 偽りの自分は心を疲弊させていくもの。

『リア』として見て欲しい、たったそれだけの願いがどんなに大きかったか、今、思い知った。


 気が抜けてしまい、涙腺が緩んでいく。

 この一年、なるべく二人の事は考えないようにしていた。暴動の日からリアを取り巻く状況は常に変化し、ラフィリアとしての地位を周囲に認めさせる事だけに邁進せざるを得なかった。

 でも、それでも、


「……ずっと会いたかった」


 湿った呟きが床に落ちる。

 二人の存在を自分の中から消すことはできなかった。

 どんなにたくさんの人から愛の言葉を囁かれようと、決して。


「僕もだよ。ずっとリアに会いたかった」

「俺だって。リアの事を考えない日はなかった」


 フランとドルフはそれぞれ右と左に立ち、リアの両手を片方ずつ取った。

 離れていた日々を早く取り戻したい、そんな所思が手のぬくもりから伝わる。互いの体温が合わさって、これ以上ないほどの安心感をもたらす。


「積もる話は食事をしながらにしよう。――さ、お姫様。参りましょう」


 晴れ渡った冬の空のように澄んだ顔を見れば、彼らもリアと同じ気持ちだったのだと知った。

 どんなに離れていても、ひと時もその存在を忘れる事はなかった。その強い想いを持ち続けていたからこそ、こうしてまた会えたのだ。

 自分たちの手で手繰り寄せた運命。それがこれからどうなるのかはまだわからない。それでも、この日限りであったとしても、再会できた事がこの上なく嬉しい。


 今を楽しむため、この時ばかりは一年前の『リア』に戻って二人と共に歩み出した。

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