第138話 ラフィリアとして
『お前のことは命にかえても絶対守る』
黒髪に黒い服を着た魔王は、ぼろ切れを纏った姫に変わらぬ愛を告げた。
高らかでよく通る
たくさんの照明に照らされた魔王と姫は互いに見つめ合い、瞳の中に
後ろに置かれている断頭台と、剣を構える数多くの兵が見守る中、情緒的な音楽が場を盛り立てていく。
没入感の高さゆえ、客席からは夢見心地な感嘆の息が漏れる。
『魔王様。わたくしはあなたとなら、どこへでも共に参ります。どうか、あなたの側にいさせてくださいませ』
漆黒の魔王に抱かれたまま、姫は切なげな表情で懇願する。
姫の美しい金髪が魔王によってさらりと撫でられた。それは確かな愛情を感じる手つきだ。
そうして一際強い風が吹き、暗転。
再び舞台に光が戻ると、そこには魔王と、漆黒のドレスを着た姫が立つ。
とても幸せそうに頷き合って手を取り、舞台の奥へとゆっくり歩いていく。舞台装置によって煙が充満し、徐々に二人の姿が朧げになって、やがて見えなくなった。
静寂はひと呼吸分だけで、一気に拍手が沸き起こった。それは、このお話や演者が素晴らしかったからだ。決して、幼少期に地底へ落とされた娘の生きざまに感動しているわけではない。
リアも称賛の拍手を送った。二階にあるバルコニー席から見ると、観客の熱気が立ち
光の姫君と夜の魔王。このお話が皆の心を掴んで離さない証拠だ。
「ラフィリア様、とても素敵なお話でしたね」
隣に座るジェフリーが双眼鏡を下ろし、リアに笑いかける。
正直、今のリアは感傷的な気分なのでそっとしておいて欲しかったが、そんな個人的な感情に振り回されることがあってはならない。意識的に口角を持ち上げて目尻を柔らかくする。
「ええ。とっても心が温まるお話でした」
実際はこの話のように事は運ばなかった。
魔王のモデルとなった二人とは一緒にいられず、別々の道を歩んで今に至る。
物語であれば、そこで悲劇のラストとして締めくくられるのかもしれないが、リアのお話はまだ終わらない。今も未来へ続いている。
――『リア』としての話は暴動の日をもって終わったのかもしれない。今、自分が演じているのは『ラフィリア』としての物語だ。
自嘲に曇る胸中を悟られないように、深紅の幕が下がった舞台に視線を落とす。
鳴りやまない喝采を受け入れるかのように舞台の幕が再び上がって、演者が横一列に並ぶ。一人ずつ感謝を述べて深く頭を下げれば、会場内の気勢は激しく唸りを上げる。
素敵な演技をありがとう、そんな
しばらくして、一階席の客たちはちらほらと帰宅を始める。リアも長時間座って凝り固まった筋肉を弛緩させようと、わずかに背中を反らせた。あまり大きな動きをしてしまうとラフィリアの印象からかけ離れてしまうので気を遣う。今のリアは皆の理想とする『ラフィリア』であり続けなければならない。
リアが演じる舞台の幕はほとんど閉じることがない。役割を降りることができるのは、ボーマン邸のごく一部の人と接している間だけ。
このままずっと張り詰めて、綻び無く何十年もやっていけるのか、それを考えると自信がなくて途方に暮れる。
今も、ジェフリーに心を明かすことはできていない。いつか彼は伴侶となり、一番の理解者となってもらわなければならないのに。
「ラフィリア様、本日のお召し物は魔王が姫へ贈ったドレスに似ていますね。まさかラフィリア様、それを狙っていましたか? その可愛らしい花の髪飾りも」
「えっ? そんなつもりはなかったのですが、そうなっていたら恥ずかしいですわ」
リアの
今日の服装はとてもシンプルなパステルイエローのワンピース。
ハーフアップにした髪を飾るのは、小さな白い花がたくさんあしらわれたバレッタだ。
服はフランが、髪飾りはドルフがくれた物だという事は、口が裂けても言えない。
だから、それを指摘されたことに動揺してしまった。
男性と会うのに、別の男性から贈られた物を身につけるなんて未練がましくてジェフリーに失礼だとは思う。
でも、三人で観たかったのだ。本当は。
この演劇を見終わったらきっと吹っ切れる。これで最後。そんな期待を持って今日はここへ臨んだ。
居心地の悪さを誤魔化すように、バッグから懐中時計を取り出す。今は午後三時三十分を回ったところだ。
「ジェフリー様、そろそろこちらを出ませんか? 私、喉が渇いてしまって」
適当な理由をつけて場をしのぐ。
もちろんジェフリーはそれを否定しない。
すんなりと椅子から腰を上げる。
「そうですね、そうしましょう。……それにしてもラフィリア様、ずいぶんと良い懐中時計をお持ちですね」
「そうですか?」
これはとても大切な物だ。この一年肌身離さず持っていたが、どこにでもある懐中時計だと価値を考えることはなかった。
「少し見せてもらっても?」
「ええ」
リアは立ち上がりながら手渡した。
丁寧に受け取ったジェフリーは、興味深げにあちこち見回している。
「高い技術を持つ職人が作ったものですね。細かな装飾に乱れがない」
感嘆の息を漏らしながらリアに視線を戻した。
「それと、この蓋に彫刻された三本のひまわり……」
そこで言い
「三本のひまわりの花言葉をラフィリア様は知っていますか?」
「すみません、知らなくて」
なんだか自分が悪いことをしてしまったかのように肩身が狭い。リアはそういうロマンティックなことにさほど興味がなく、ほとんど知らないのだ。少しは雑学的なことも知識として頭に入れておいた方が、色々な人と会話をする際に使えるかもしれない。今日帰ったら、花言葉についての本がボーマン邸にあるか調べようと、さっそく予定を立てた。
「あなたを愛しています」
「え?」
ほんの少し、意識がジェフリーから別のところに向いていた隙だった。下から上ってくる人々が作り出す詠嘆のさざめきに搔き消されそうになりながらも、リアの耳にしっかりと突き刺さる。
突然の事で切り返しができなかった。
瞬きを忘れた土色の目に映るのは、リアの機微を窺う鋭さを持ったヘーゼルの瞳。
この小さなバルコニーの空気だけが、薄氷のような繊細なものに変わる。
「三本のひまわりの花言葉です。……この懐中時計は、男性から贈られたのですか?」
確信を持った口調に触発されて、フランの顔が鮮明に蘇る。
いつもにこにこしていて、何を考えているのかわからない。結えて背中で揺れる黒髪は癖がなく艶々で羨ましかったし、紺色の瞳には不思議な魅力があった。
寂しさや切なさが混じった双眸の言及から逃れるようにして、リアは目の前にいる大切な男性から視線を逸らしてしまった。そのまま一階の客席、舞台、高い天井をさまよう。それがジェフリーへ戻って来るまでに数秒を有した。
――まずい。
一気に肝が冷えた。ラフィリアを取り繕うことができなかった。
なんとでも嘘はつけたはずだ。
それに、これは贈られた物ではない。暴動が起こった日の朝、逃がされた隠れ家に置かれていたのだ。それをリアが勝手に持ってきてしまって、そのまま使用しているだけ。
フランが置いた物に違いはないが、実際手に取るかもわからない物に重要な意味を残すようなことをするものか。
ジェフリーも自分も、とんだ思い過ごしだ。
「これはボーマン様から頂いた物です。そんな意味があったとは知らなかったですわ。私も勉強不足ですね」
『リア』を殺し、『ラフィリア』の仮面をきつく縛りつけて
もう真意を聞くことはできないから、せめていい思い出として残しておこうと、秘めた想いと共にバッグへと押し込めた。
◇ ◇ ◇
劇場を後にし、ジェフリーが泊まっているホテルのラウンジで一時間ほどお茶をしながら会話を楽しんだ。
お互いの近況を面白おかしく報告し合い、終始和やかな雰囲気で時は過ぎていく。空が茜色に染まり、一日の終わりを惜しむように悲し気な風合いを運んできた頃、ジェフリーと二人きりの茶会はお開きとなった。
外に出れば涼しい風が夜を予感させ、
ここは大教会前の大通りから一本入った路地にあり、ボーマン邸までは徒歩で十分ほどだ。
「本日は私をお誘いいただき、誠にありがとうございました。とても有意義な時間を過ごせました」
滑らかに頭を下げる。劇場では失敗してしまったが、お茶の時間で挽回できたはずだ。
顔を上げ、念を押すように甘く
「次にこの都市へ来る際もぜひ、私とお会いしてくださいね」
これで完璧だ。後は帰るだけ。
きちんと一礼し、一歩下がれば靴のヒールが石畳に軽い音を立てる。
予想外だったのはそれからだ。ジェフリーがリアの左手を取って引き留めた。決して強引ではないが、その指の硬さからリアへの恋慕が流れてくる。温かく大きな手に乗せられた自分の手を驚いて見つめていると、彼はそのまま真剣な眼差しで口を開いた。
「ラフィリア様。僕は、命にかえてもあなた様を守りたいと思っております」
『リア! お前のことは命にかえても絶対に守る! 俺はお前と一緒にいたい!』
リアの脳内はジェフリーではなく、降光祭の日のドルフを鮮やかに映し出した。
勢いよく大聖堂の扉を開けて、リアだけを見つめていた紺色の瞳。奇跡の力で重力を操り、参列者の動きを止めながら必死に叫んだ彼の姿を今でも忘れていない。
眼前のジェフリーは瞳の奥にリアへの熱愛を湛え、紳士然として答えを待っている。
ここは喜ぶべきだと、リアの思考は冷静に次の動作を体に伝達する。
しかし、声帯は音を紡ごうとしなかった。
その台詞は、もっと直実的で勢いがあるもの。こんな柔らかな雰囲気なんて興醒めだ。
女の子が夢見る魔法の言葉でリアを喜ばせる事ができるのはジェフリーではない。だから、それを言って欲しくなかった。
瞬間的に、一年の間に溜め込んだ鬱憤が喉までせり上がってきた。このまま癇癪を起こして鬱積した本音をぶちまけてしまいたい。
しかし、それは許さないと冷たく突き放す自分が感情の手綱を握る。
リアの心がどれだけ掻き乱されようが、今は『リア』ではなく『ラフィリア』だ。この場では、
『嬉しいです。私もあなたと同じ思いです』
そう言わなければならない。
ジェフリーは、本当に大切な男性だから。
『ラフィリア』を好いてくれて、将来は共に国を導いていく人だから。
暴動のあった日から、ラフィリアとして生きる覚悟を決めた。こんなところで個人的感情に流されるわけにはいかない。
いかないけれど。
目元は急速に熱を帯び、意思に反して視界を歪ませていく。
ジェフリーの手を振りほどいて顔を覆った手のひらが、みるみるうちに濡れていく。
隠し切れない嗚咽が喉で爆ぜ、息が苦しい。
明らかな失態だ。
どうして泣いているのか、自分自身ではわからなかった。ただ、とても泣きたい気分で、感情を制御できない。
ラフィリアとして、こんなところで泣き出すという醜態を晒してしまったことが悔やまれる。ジェフリーに愛想を尽かされて、悪い噂を流されるかもしれない。リアをよく思っていない貴族の耳にまでそれが入り、女王となる道を断たれてしまうかもしれない。
この一年、皆に愛されるラフィリアとして重ねてきた
これは嬉し涙だと言えば、まだ取り返しはつく。今からでも遅くない。
『私もジェフリー様をお慕いしております。嬉しくて、つい涙が出てしまいました』
それでいい。
必死に息を吐いては吸う。せっかくジェフリーが伝えてくれた好意だ。それにはしっかりと応えたい。
嬉しいし、ありがたい。それは嘘偽りではない。
だけれど、ジェフリーの気持ちに寄り添う賢答はどうしても口から出てこなかった。
バッグからハンカチを取り出し、俯いて涙を拭うリアからジェフリーは半歩距離を置いた。
「突然申し訳ありませんでした。これは僕の気持ちです。今ここでラフィリア様の答えを聞きたいとは思っておりません」
穏やかな口調でリアを労わってくれる姿に後ろめたさが良心をつつく。
「こちらこそ申し訳ありません。こんなところで涙を流してしまうなど……」
結局、リアはジェフリーの求愛に応じることはできなかった。曖昧に詫びただけでこの場を終わらせた。
それにもかかわらず、ジェフリーは嫌な顔一つせずにヘーゼルの瞳を温かに緩めてくれる。
「いいえ。あなた様は今大変な時期なのですから、僕の配慮が足りなかったんです。帰りましょうか。送りますよ」
「ありがとうございます」
体を帰路に向けてみせれば、ジェフリーはそれに合わせてゆっくりと歩き始めた。
リアの歩調を尊重する優しさに胸の奥が痛む。
足を踏み出す度に罪悪感が肥大化し、精神まで
偽りの自分を演じ続けるのは思った以上に重労働だと、ここへ来て自覚してしまった。そんな気持ちを抱えたまま生き続けられるのだろうか。
漠然とした不安に足元をすくわれそうになるが、それに構う暇はない。
心を滅し、前を向き、暮れ行く町の雑踏を進む。
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