縁を――
第136話 あの日から
更けた夜をものともせず、昼間のように
天井や壁に取り付けられた豪奢な照明器具の輝きを一心に受け、着飾った人々が優雅に談笑をしながらゆったりと踊る。
穏やかな歓談の音は周囲の上品な空気をより洗練させ、弦楽器の音色に活気と色を添えている。
音楽に身を委ねながら自分と見つめ合うのは、今年十八歳だという男性だ。少年の面影を残す彼は舞踏会に慣れていないらしく、ぎこちない動きから必死さが見て取れる。さりげなくリードし、一曲のパートナーとなった彼の腕に手を添えて優雅に舞う。
場数を踏み、足がもつれることはもうない。それどころか、相手の様子を観察する余裕すらある。
曲が終わり、とても楽しいひとときだったとお礼をして男性と別れた。
背を見送るほんの少しの間、小さく開けた唇から抱えきれない重圧を漏らす。周囲に気取られないようにしながら。
――次の相手は、
「ラフィリア殿下」
すっかりその呼び名が定着し、意識せずとも声の主を辿るように振り返る。
そこには老齢の紳士がにこやかに佇んでいた。
「お久しぶりです。以前にも増して、お綺麗になられましたね」
流れるように挨拶をして目元を緩ませるのは、とても恩義を感じている人だ。
懐かしい姿を前に顔が綻んでいく。
「まあ、エリントン卿。お久しぶりです。お会いできて、とても光栄です」
「私と一曲、踊っていただけますか?」
「もちろんですわ」
柔らかく笑めば、エリントン卿も同じように親愛の籠った暖かさで迎え入れてくれた。
「見違えてしまいましたよ、殿下。この一年、相当な努力をされたことと思います」
「ええ……それは、その通りかもしれませんね」
エリントン卿の誠実な眼差しに対し、リアは愁いを帯びた土色の瞳を伏せた。そのまつげを飾る煌めきさえも、瑞々しい色香を際立たせている。
聖都ラフィリアで歴史的な暴動が起こってから一年。
リアは『ラフィリア』として、次期女王の座をほぼ確定させた。
ボーマンの元で語学から地理歴史、それに礼儀作法など、地底に落とされてからは無縁だった学習を始め、寝る間も惜しんで毎日弛まずに励んだ。表舞台で絶対に失敗するわけにはいかない、そんな不屈の心を奮い立たせ、短い時間で全てを完璧に自分の物とした。
それと同時に見た目も磨いた。
人々が理想とするラフィリアとなるために必要なことだ。
肩につかなかった焦げ茶色の短髪は鎖骨を隠すほどまでに伸び、今では難なくまとめ上げる事ができる。
大きく開いたデコルテは張りがあって健康的な魅力を放ち、身を包むドレスはそれを際立たせるために存在しているかのように、金色の絹を絨毯へ伸ばしている。
仕草や話し方、体型などには人一倍気を使い、今では誰が見ても清楚で淑やかな女性となった。
「あなた様が社交界にお目見えされてから、常に話題の中心でした」
「それは、色々な意味で、ということでしょう?」
わずかに目を細めてエリントン卿に意地の悪い質問を返すが、彼は老成した落ち着きで朗らかなままだ。
「私は殿下の味方ですので、目に余る時は訂正して回っていましたよ。今後もそういたします」
「それはありがたいですわ」
思わず苦笑が口をついて出る。
リアは今日のように社交場へと積極的に顔を出し、人脈作りにも奮闘している。
それは最初から上手くいったかと言われればそうではない。苦難の連続だった。
暴動の際に人々を癒し、争いを鎮めた奇跡があったとしても、初めのうちはモグラが紛れ込んでいると
その甲斐あって人々の見る目は徐々に変化し、今ではリアに向けられる熱視線のほとんどが羨望だ。
今回の舞踏会でもリアは注目され、どんな話題なら興味を引けるかと大勢が
参加者の視線を纏いながらエリントン卿と他愛もない話をしている途中、弦楽器の重厚な音色が広間に満ちて、人々は目の前のパートナーと踊り出した。
エリントン卿にエスコートされ、リアも体を任せる。とても自然に老紳士と呼吸を合わせられる。
「あれからお礼も伝えられず、申し訳ございませんでした」
体が密着するダンス中は密談をするのに最適だ。リアは、兄ジョシュア亡命についてそっと呟いた。
「いいのですよ。あなた様と私の繋がりが知られてしまうと、リスクが増えますから」
「本当にありがとうございました。お頼みできたのがエリントン卿で良かったです」
「殿下の力になれて光栄です。もちろん、あのことは他言いたしません。墓場まで持っていくつもりですので、ご安心ください。あなた様を裏切るような真似は、誓っていたしません」
「助かりますわ」
リアは春に咲く可憐な花々のように柔らかく微笑んだ。
ふわりふわりと足を移動させ、音楽に身をゆだねる。
心地よく踊ることができるのは、エリントン卿がリアを心から信頼してくれているからだ。
これまでたくさんの人と踊ってきて、添えられる手や表情から感情がわかるようになった。リアの事をよく思っておらず、表面だけ取り繕っている人とは息が合わない。それでも、こちらから合わせる技術は磨いてあるので、恥をかかせることはないが。
暴動の日からリアの生活は一変した。もう昔のように能天気には笑えない。
自分は光を携えるラフィリアであり、新たな国の次期女王という責務も背負って生きているのだから。
「殿下の評判は私の住む田舎町にまで届いておりますよ。可憐で聡明、気高く優しいお方で、正しく光の女神ラフィリア様の生まれ変わりであると」
エリントン卿は慣れた手つきでリアを誘い、楽しくリズムを取らせてくれる。だから、こちらもほんの少しだけラフィリアとしての分厚い仮面が剥がれ、はにかんで頬を染める。
「私の昔を知っている人に言われると、何だか恥ずかしいですわ」
「恥ずかしがることはありませんよ。私も今日お会いして、あなた様こそ理想のラフィリア様だと思いました。これからも殿下のお力になりたいと、気持ちを新たにしたほどです」
「頼りにしておりますわ、エリントン卿」
砂糖菓子のように甘い笑みで締めくくった。淑やかさで飾った所作はすっかり定着し、自然に顔を彩っていく。
昔とはまったく別人のようになってしまったリアを見て、エリントン卿は何を思うのだろうか。円熟した彼からは敬愛以外の念は窺えなかった。
曲が終わり、エリントン卿とまた会う約束をして別れた。
一人になったものの、気を抜く事はできない。常時、ラフィリアに
とりあえずのところはリアの存在を認めていても、完全な味方ばかりではない。粗がないかを鋭く観察され、少しでも失敗すれば激しく責め立てられてしまう。女王候補から蹴落とそうとする貴族の存在は厄介だ。
おかげでリアは
そろそろ休憩でもしようかと、共にここへ来た侍女を探して周囲に視線を投げたところ、背後から自分を呼ぶ声がかかった。
「ラフィリア様」
振り向けば、一人の青年がヘーゼルの瞳に熱を持ってリアだけを映していた。
「ラフィリア様。本日も見惚れてしまうほどお美しいです。よろしかったら、これから僕とバルコニーでお話でもしませんか?」
綻ぶ口元は嘘をついていない。
「ジェフリー様、もちろんですわ。そろそろ踊り疲れたので、少し休もうかと思っていたんです」
綺麗に整えられた小麦色の髪をした青年は、ジェフリー・フローレンスという。彼はリアの返事を聞くと途端に
とても嬉しそうな顔で笑うジェフリーの手を取れば、優しく丁寧に扱ってくれる。リアを世界で一番大切な宝物であるかのように気遣い、第一に考えてくれているのがその一挙手一投足から感じ取れる。
会場内をゆっくりと移動すれば、人々の視線が隠し切れない好奇を伴って肌を撫でていく。それに対してジェフリーは誇らしげに胸を張っている。
広間からバルコニーに出ると会場の音は一気に小さくなり、ジェフリーと二人だけの世界にやってきたようだ。火照った体を冷ます夜風がふわりと吹き抜ける。
バルコニーの先、手すりの前まで来ると、ジェフリーは横に立つリアへ向き直った。その面差しは多幸感に明るい。
「あなたとこうしていられることが何よりの幸せです」
「私もジェフリー様に手を取っていただけて、光栄ですわ」
柔らかな雪のように微笑めば、ジェフリーもそれに応えるようにして甘美な笑みをくれた。
彼はリアに恋をしている。
それに対して罪悪感を覚えるのは、未だにジェフリーへ同じ気持ちを向けられていないからだろうか。
彼はとても良い人だ。優しくて気遣いができる、素晴らしい人柄である。
頭の中で絶賛するものの、リアの中ではそれ以上でもそれ以下でもない。
手すりに乗せた手にジェフリーの大きな手のひらが半分ほど重なった。
温もりが肌に浸透し、リアと一つになることを望んでいる。
彼は少しずつ、リアとの関係を進めようとしている。
嫌悪するほどでもないが、わざわざ握り返すのもためらう、そんな曖昧な気持ちのままバルコニーから夜の庭を眺めていた。
今一歩踏み込めない個人的な感情とは別に、ジェフリーとはいずれ結婚する。今はまだお付き合いすらしていないけれど。
彼は古くから続くフローレンス伯爵家の次男だ。聖都ラフィリアからほど近い町に住んでいて、時々会いに来てくれる。
共に夜会へ行ったこともあり、周囲からは婚約の噂が立つほど仲良くしている。
彼との出会いは偶然だった。
一年前の暴動をもって事実上解散してしまった騎士団を新たに創設するため、治安部隊は近々再編される予定だ。それに先駆けて、騎士長に就任する治安部隊小隊長と挨拶をする機会があった。
その時、小隊長の弟であるジェフリーも同席していて、初めて顔を合わせたのだ。
それからというもの、ジェフリーから頻繁に手紙が届き、小隊長を介して会う事が増えた。
小隊長は弟の恋を応援しているらしく、色々とお膳立てが見えたが、リアとしてもいずれ配偶者を決めなければならない。
親交を深めていって半年ほど経つが、特別気になる点も無く良好な関係を築いている。
ジェフリーは王配として育ちは問題なく、リアを好いてくれている。この上ないくらい好条件だ。
にもかかわらずリアの心中は複雑で、周囲をぼんやりと曇らせるような
この人は『リア』ではなく、『ラフィリア』を好きなのだと思うと、虚しさが体の中を突き抜けるから。
それでもこれは自分の選んだ道だ。ぬるい感情は切り捨てた。
「ジェフリー様、今回この都市にはどの程度滞在されるのですか?」
意識的に口角を上げ、二人だけの空間に新たな風を吹かせる。
「一週間です。ぜひその間に、ラフィリア様ともう一度お会いしたいのですが」
「もちろんですわ」
声を弾ませ、顔のすぐ下で可愛らしく手を打ち合わせた。
「もしよろしければ、光の姫君と夜の魔王の演劇を見に行きませんか? 一年前に公開予定だったのですが、暴動で延期になってしまったんです」
光の姫君と夜の魔王。その単語に、リアの心臓は面白いくらい強く脈動し始める。
強張りそうになる表情を理性で覆い隠し、意地でも笑顔は崩さない。広間から漏れる微かな光を味方にして、心身をより一層魅力的に飾る。
「私も観劇したいと思っていたんです。ご一緒していただけるなんて嬉しいですわ。とても素敵なお話でしたから」
虐げられていた姫が魔王と結ばれる、という物語だ。話のもとは
「僕も読んだのですよ。とても素敵ですよね」
ジェフリーは一度会話を切ってから表情を引き締めた。
「ラフィリア様のご都合はどうですか?」
「確か……明後日の午後でしたら空いていたはずです。一度予定を確認してからジェフリー様の泊まっていらっしゃるホテルへ詳しい手紙を届ける、という形でよろしいですか?」
「もちろんですよ。――当日に時間がありましたら、観覧後にお茶でもどうですか?」
「まあ、嬉しい。ぜひ、ジェフリー様とご一緒したいです」
すぐ横に立つジェフリーへ体を寄せ、瞳を見つめながら喜びを表せば、彼は照れたように視線をそらした。
これは自ら望んだ事。だから、最後までやり通す。この国の安寧と民の幸福のために生きるのだ。
今一度、見失いそうな『リア』としての矜持を手繰り寄せ、この一年で作り上げた
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