第127話 流動する状況
ボーマンが去ってからさほど時間はかからず、治安部隊の男性がリアの元に紙袋を持ってきてくれた。彼はジョシュアが亡命した時の夜会で会場警備の交代だった男性だ。
今回は荷物の受け渡しだけですぐに引き返して行ったが、人を安心させる温厚な笑顔に救われた。
一人になった室内で紙袋を開けると、さらに二つの袋が入っていた。一つにはパンが、もう一つには大教会の制服と靴が入っていて、中には小さな紙が添えられている。
手に取ってみると、それはボーマンの妻キャロライナからのものだった。
『リア様、今回は動きやすさを重視して制服を用意しましたけれど、今度わたくしと一緒に可愛いお洋服を選びましょうね。 キャロライナ』
気遣いに満ちた短文に、またしても涙がこみあげてくる。今日は朝から泣いてばかりだ。
人の優しさの上に生かされている自分を恥じながらも、それならば生きて恩を返したいと小さな決意で気を奮い立たせ、食卓の椅子に腰かけてパンを食べた。
ひたすら黙々と頬張り、調理場に置かれていたティーセットでお茶を淹れるために席を立つ。
添えられていた茶葉はフランが好んでいた物だった。袋を目にすると寂寥感に襲われて胸が締め付けられる。いつか今日の感謝を伝えることを誓い、茶葉をポットに移してから戸棚に戻した。
簡単な食事を終えれば、栄養を補給したからか、ほんの少し平静を取り戻せた。
この調子で状況を好転させる名案が浮かべばいいが、鬱々とした気持ちは晴れない。
特にすることもないのでベッドの上で膝を抱え、テーブルに置いたカンテラの炎が揺らぐのをじっと見つめている。
カンテラだけが頼りの薄暗い地下では時間を掴みづらいが、手元の懐中時計は正午を指している。
ここへ来てからもう何時間も経った。
あとどれだけここにいればいいのか。
音もなく燃える炎は答えをくれない。
部屋の鍵はかけられていて、今のリアにできることは何もない。万が一の時は扉を壊して出て行けるだろうが、今はそうすべきではない。時が満ちるのを待つのみ。
ボーマンは信頼の置ける人間だ。リアを置き去りにするようなことは無い。
必ず続報を持ってきてくれると強く信じている。
一人で閉じ込められているというのは精神を削られ、ともすれば発狂してしまいそうだが、気を強く持って動き出す時を待ちわびる。
どれくらい経っただろうか。一旦考えるのをすべて放棄し、膝に顔を
「リアさん、開けるよ」
声はいつもより焦燥が滲み出ていて、鍵の開く音と重なる。
入ってきたボーマンは平時では考えられないほどに慌てていた。
苦悩を隠すことすらも忘れた渋面にリアは怖気づき、呼気が声帯を素通りする。
「リアさん、今すぐここを出る」
声は極度の緊張を
嫌な予感が早くもリアの体を内側から冷やしていく。
不安を顔面に貼り付けたまま素早くベッドから降り、ボーマンの薄青色をした瞳を下からのぞいて理由を促す。
「午前中にラフィリア派が保護しているクラリス嬢が襲われ、それを発端に主派と貧民が大規模な暴動を起こした。ラフィリア様の寵児を守れなかった者に国を任せることなどできないと言ってな」
その先を言いたくないとばかりにボーマンは一度口を閉じ、苦々しく表情を歪めた。
三秒ほどの不自然な沈黙が、窒息してしまいそうなほど不穏な空気を充満させる。
「ここ、聖都ラフィリアは、じきに主派の物となる」
宣言じみた言葉に二の句を継ぐなんてできない。そして実感もない。昨日まで争いとは無縁の平和な都市だったのに。
冗談でしょうと笑い飛ばしたいが、ボーマンの表情は事実を告げる凄みを纏ったまま。
「手短にこれからのことを話す。まず、あなたはここから私の部下と共に逃げ出す。郊外に馬車を用意した。それに乗って聖都ラフィリアから離脱するんだ」
「ボーマン様は……? 私ばっかり……」
「モグラの主――ユージーン様はあなたを探している。もし見つかって捕えられてしまえば、取り返しのつかないことになってしまう。だから、逃げてくれ」
そこにあるのは哀願だった。
時間は無いとばかりに、ボーマンはリアの返事を待たず話し続ける。
「昨日、フランシス君から聞いたよ。あなたの中にはラフィリア様の力の核があるんだってね。それなら尚更、あなたをユージーン様に渡すわけにはいかない。あなたはこの国の最後の希望だ」
ボーマンは子供に言い聞かせるようにリアの両手を取った。寂しそうに眉を垂れて笑う。
「だから、今はどうか逃げてください」
リアがユージーンの手に落ちるということは、この都市、ひいてはこの国の終わりを決定付けてしまうこと。
それがわからないほど愚かではない。リアに残された道はここから逃げ出し、身を隠す事だった。
「リアさん。私は決してあなたを厄介者だとは思っていない。本当ならばリアさんの側にいてあげたいが、私は治安部隊の指揮に戻らなければならない。すぐに部下を寄こすからね」
ボーマンはリアを責めず、親愛を持って一度軽く抱きしめてから去っていった。
再び静寂に包まれる。この部屋は暴動とは無縁の落ち着きを保ったまま。だから、今言われた話が本当だとは信じられなかった。
もう何が何だか感情が追いつかない。状況が変化しすぎて、これは夢なのではとすら思える。それならば早く覚めて欲しい。
心が置き去りにされたまま立ち尽くしていると、軽いノックの音が耳を叩いた。
気配を消すようにそっと開けられた扉からは、先ほどパンと服を届けてくれた男性が入ってきた。一目見た顔つきは数時間前とは異なり、本来の柔軟さを失って冷血で厳しい。
「さあリア様、逃げましょう」
ありとあらゆる感情が欠落した顔から発せられる抑揚のない声にリアは酷く怯え、上手く返事ができなかった。初めて見る戦う者の表情はそれだけで畏縮してしまうし、戦渦を身近に感じて不安に呑まれてしまいそうだ。
顔を伏せたまま何とかひとつ頷き、男性に従う意思を伝えた。
そんなリアを見て、己の鬼気迫る形相に思い当たったのか、男性は頬を持ち上げて笑顔に変えた。
「あの時に名乗ってなかったな。俺はコンラッドだ」
口調も会場警備の時のように親しみやすいものにして、動揺してしまったリアの気を落ち着けてくれようとしている。
些細なことだが、恐怖に張り詰めていた精神が幾分か和らぐ。これならしっかり声が出そうだ。
「よろしくお願いします、コンラッドさん」
「簡単に現状を言う。今地上は主派の騎士団と貧民、それからモグラによってめちゃくちゃにされていて、無秩序な暴力が飛び交っている。制圧の状況は思わしくない。治安部隊は必死に抵抗しているが、主派に比べて圧倒的に数が少なくて、住民を逃す時間稼ぎにすぎない。もう、誰がどう見ても主派に負ける」
負ける、その一言を口にする顔は真に迫っている。それは、すでに決まりきった未来なのだという嫌な裏付けだった。
「厄介なのが、主派の貴族がボーマン様の権力すら奪おうとしているんだ。今、ボーマン様は独断で動いている状態で、それに従う治安部隊員しか制圧に参加していないんだ」
「じゃあ本当に数が……」
「みんな我が身可愛さにボーマン様の味方をする奴は少ないのさ」
力なく笑う姿からは諦めが漂っている。それでも絶望だけはしていなかった。良き未来を見い出すために前を見つめている。
ボーマンはこの騒動を鎮めるために地位を捨てる覚悟で臨み、コンラッドもそれに賛同する気高い意志を持っているのだ。
必死に戦ってくれている人に畏怖してしまった自分が恥ずかしくて申し訳ないが、今はそれを詫びる時ではない。目の前の暴動に焦点を当てる。
「この国はこれからどうなるんですか」
自分で言っておきながら、最悪の事態しか想像できない。
「ユージーン様にこの国が支配されたら碌なことにはならないだろうな。それを回避するために、お前さんはこんなところで命を落としていいお方ではない」
強い眼差しにはリアへの期待が含まれている。
「ここから一歩外に出れば、暴動に触発された連中が誰彼構わず斬りかかってくるような状態だ。お前さんはこの国を変える切り札になる。だから、生きろ」
コンラッドはリアに一通の手紙を差し出した。
反射的に受け取ってから、背の高い彼に視線を合わせるため首を上へ向ける。カンテラの炎に揺らめく茶色の虹彩は真っ直ぐにこちらを見据えていた。
「俺が死んだら妻に渡してくれ。遺書だ」
「そんなっ」
不穏な言葉とは裏腹、よく晴れた日の湖面のように澄んでいて穏やかな表情をしていた。
「たとえ自分が死んでも、妻と娘たちの未来を守りたい。前に言ったろ? 五歳と三歳の子がいるんだ。その夢はお前さんに託す。だから、俺はその道を切り開くために命を懸ける。お前さんからは優しくて気高く、とてつもない力を感じるんだ。良き王になれるはず。頼んだぞ」
リアの肩を叩くその目は、家族への愛で満たされていた。
愛する者を背負う覚悟を目の当たりにして、リアは一つ大きく頷いてから大切な手紙を胸の内ポケットにしまった。絶対に途中で無くしてしまわないように。
コンラッドはその様子を見止めてから小さくありがとな、と呟いてテーブルのカンテラを持ち、青緑色の扉を開けた。
リアはベッドに
これは大切な人が置いていってくれたものだから。必ずまた会えますように、そう願いを込めて。
ここからは戦いの始まりだ。
コンラッドに導かれ、リアは扉をくぐった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます