選択の先へ

第126話 運命のいたずら

 浅いまどろみの中、普段とは違う音が聴覚を刺激する。

 声だ。

 言い争っているような抑揚の激しい音調が無理やり脳に入り込む。


 覚醒したばかりの頭はぼんやりとしていて、数秒間ベッド上で身じろぎせず物騒なやり取りを聞いていた。

 穏やかではない気配に揺り動かされるようにして、本能が警鐘を鳴らし始めるまで時間はかからない。

 ぱちりと目を開いて片肘をつき、体を横に向けた。


 夜明け間近といったような薄暗さだが、部屋内をうろつくのに支障はない。

 のろのろと体を起こしてみても、部屋の中は寝る前と何も変わっていなかった。どうやら廊下が何かの現場になっているようだ。

 絶えることのない複数の怒号。最悪の目覚めに短絡的な怒りが湧く。


 そんな感情に翻弄されたのは数秒で、太い悪声あくせいの中にフランとドルフの声が混じっているのに気が付いた瞬間、一気に血の気が引いて意識は完全に眠りから覚めた。


 こちらに都合が悪い事が発生したのだとベッドから跳ね起き、スリッパも履かずにクローゼットからガウンを取り出す。薄い寝間着の上に素早く羽織って部屋を出ようと扉に手をかけるが、動かない。誰かが外から押さえている。

 物々しい空気がこれでもかというほど扉を突き抜けてくるので、一旦自分を落ち着けるために呼吸を整えて耳を澄ませる。


「そこをどけ。リアという女がここに住んでいることは知っている。今更隠したところで無意味だ」


 自分の名前が出たことに、どきりと鼓動が大きくなる。

 知らない男だ。粗野で、高圧的な態度をひけらかし、人を意のままに操ろうとする横暴さがリアを弱気にさせる。


「ここには誰もいません。第一、あなた方は人の家に何の許可もなく押し入ってきているんです。もう少し謙虚になってください」


 扉のすぐ向こうでフランの苛立ちが込められた声がする。安心するのと同時に不安も比例して強まっていく。


「お前たちは犯罪者だ。歯向かうと罪が重くなるぞ」

「犯罪者は俺らじゃねえだろ。総政公様がやらかしたんだ」


 反抗的なドルフの物言いにリアはハッとする。総政公が失脚したのだ。

 だが、首を傾げざるを得ない。ボーマンから聞いていた引き取り屋摘発の時間にはまだ早すぎる。

 状況を把握するため、リアは冷静になるよう自分に暗示をかけて必死に会話を耳に入れる。


「処罰を決めるのはお前たちではない。オルコット家全員逮捕、それにリアという女の確保。それが今回騎士団に通達された命令だ。あまり調子に乗るな。さあ、そこをどけ。聞かないのなら、こちらも手荒にいくが?」

「……仕方ないですね。正直に話します。ここにはもうリアさんはいないんです。お恥ずかしい話しですが、つい先日彼女には逃げられました。この町を出たがっていたようですから、きっともう別の場所に行っているでしょう。未だに彼女がいた痕跡を片付けられずにいるなんて、未練がましくて恥ずかしいので隠したかったんですが」


 フランは静かに嘘を吐いた。何一つ真実ではない。

 自分は、二人とこんなにも一緒にいたいと願っているのに。

 目頭が熱くなり、一筋の雫が頬を滑り落ちていく。これは彼の優しさだと理解できてしまうから。リアを危険から遠ざけようとしてくれているが故の偽言ぎげんであるのは、諦めの皮を被せた柔らかな声色が何よりの証拠になっている。


「俺とフランシスはリアのこと気に入ってたんだけどな。ずっと、ずっと、これまでも、これからも、ずっと」


 彼らはリアが扉一枚隔てた先にいると気が付いている。だから、目一杯の愛情をくれるのだ

 ドルフの噛みしめるような言葉の後、すぐに扉が動き――


 ぱっと景色が切り替わった。


 暗い。

 すべての音は止み、もちろん二人の声もしない。

 耳鳴りがするほど無音の闇の中では不安が増幅し、怖くてたまらない。リアはすぐに奇跡の力を使って光を呼んだ。

 手のひらから浮かび上がった小さな白い光は、辺りを包み隠さず鮮明に照らし出す。

 ほんのわずかでも明かりがあると、それがり所となって落ち着きを取り戻せる。


 リアは知らない場所に立っていた。

 どこかの一室のようで、目の前にはシーツの取り付けられたベッドがあった。今からでも眠れそうなほどに整っている。

 振り返れば木製のテーブルが置かれ、その向こうには小さな調理場がある。どちらも目立った埃はなく、掃除されたばかりのようだ。


 室内を検めるように、その場でゆっくりと回る。地下室なのか、窓は無い。

 小さな一室だが、最近まで人が住んでいたかのように小綺麗にされている。

 もしかしたら今も誰かがいるのかもしれないと、しばらく息を潜めてみるが、人の気配は感じられない。もう少し詳しく調べようと、恐る恐る一歩目を動かした。裸足には床の石が冷たい。


 テーブルの上にはカンテラと燐寸マッチ、それに懐中時計がある。リアはカンテラに火を灯して手に持つ。奇跡の力で発現させていた光を消して、暖かみのある橙色の揺らめきを頼りに台所の左隣にある扉を開けると、バスルームとトイレがあった。ここも手入れがされている。


 リアは引き返し、もう一つ気になった扉に手をかけた。バスルームとは反対側、台所の右隣にある扉は青緑色に塗られている。これはおそらく、部屋の外に出られる扉だと思われた。

 大教会に帰りたい、その希望を胸に、押したり引いたりするが開かない。扉の内側に鍵はなく、外から施錠されてしまっていて脱出の目論見もくろみは淡く散った。


 地下室に閉じ込められていると認めるしかない。それをしてしまえば、行き場を失った混乱が一気に押し寄せてリアから力を奪う。しゃがみこんだ拍子にカンテラが床に当たり、かしゃりと音を立てて炎が危なく揺らいだ。

 錯乱しそうになる頭を必死に回して自分が置かれた状況の推察に努めるものの、フランがリアをここへ転送した、それだけしかわからない。


 一体何が起こっているのか。さっきの言い争いはなんだ。総政公に何があったのか。

 何一つとして明確なものがなく、リアは膝に顔を埋めて涙を流す。

 床の冷たさは足を這い上がって全身に巡っていき、自分の体が自分のものではなくなってしまったかのように実感を奪っていく。

 もう、フランやドルフには会えないのだろうか。

 自分はどこで道を間違えてしまったんだろうか。

 ここでひとり嘆いていたとしても答えの出ない後悔が、細い嗚咽と共に床に落ちたまま積み重なっていく。


 時間の感覚は失われ、どれだけこうしていたかなんて考えるだけ無意味なほど虚無なひと時を過ごしていると、開かなかった扉が控えめに叩かれた。


「リアさん、ここにいるね。ボーマンだ。開けさせてもらうよ」


 安らぎを与えてくれるような柔らかな声と共に、かちゃりと鍵が開く。

 青緑の扉から現れたのは、よく見知った紳士だ。実際に姿を見るまでは、自分を捕らえに来た知らない者ではないかと恐ろしかったが、確かにボーマンだった。認識した途端、一気に体の力が抜けてしまい、目からは滂沱ぼうだの涙がだらしなく溢れてきた。

 上手く動かなくなった足で倒れそうになりながらボーマンに駆け寄る。


「ボーマン様、何が起こっているんですか? 朝起きたらフランとドルフが犯罪者だって、知らない声が部屋の外から聞こえて」


 はしたないと思う余裕すらなくボーマンに泣きつく。追い詰められ、心は壊れてしまいそうだった。

 ボーマンは優しくリアを抱き留め、落ち着かせるように背中を撫でてくれる。


「リアさん、手短にはなってしまうが、今の状況を説明する。聞いて欲しい」

「はいっ……」

「今朝、総政公が逮捕された。簡単に言えば収賄だ。彼は引き取り屋を容認していた」


 端的に告げられるのは、言い逃れなどできない犯罪だった。


「引き取り屋の摘発は……」


 今日の午前に予定されていたはずだ。


「中止だ。引き取り屋はヘイズ家が裏で手を引いていた。その事実を総政公が隠蔽していたんだ。ユージーン様が今朝早くそれを公表し、騎士団と主派の貴族が動いた。それが一連のすべてだ」


 ボーマンの顔は眉間に深い皺が寄るほど険しい。引き取り屋の摘発日と被せるようにして総政公を逮捕したのには、こちらを出し抜くという明確な悪意が感じられるし、秘密裏に進めていたはずの摘発計画が筒抜けだったという事だ。

 つまり、治安部隊のごく限られた者の中に内通者がいた。その事実にボーマンは心を痛めているのだということは察せられる。リアから掛けられる言葉は見つからない。


 どんよりと停滞した沈黙の中、階段開放の日にルーディが何かを伝えようとしていたことが思い出された。

 これだったのだと、今更繋がってももう遅い。

 沈痛に肩を落としたのは数秒で、今はそんな過去よりも知りたい事がある。リアは自分本位にボーマンを見上げた。


「フランとドルフはどうなってしまうのですか!?」

「オルコット家は全員が騎士団に身柄を確保され、大教会に投獄されてしまった。今後正式に処罰が決定すると思うが、総政公が逮捕されたとあれば、今の大教会は主派が牛耳っている。おそらく国政の中枢からは降ろされる。そうなった時、あの二人ももちろん今まで通りとはいかないだろう。どうなるかは私の口からはなんとも」


 冷静に事実を述べるボーマンを前に、リアはずるずると力なく床にくずおれた。

 一瞬で日常が崩れてしまった。まだ二人には自分の気持ちを伝えられていないのに。


 喪失感に自失するリアを叱る事もなく、ボーマンは視線を合わせるように膝を折って微笑みをくれる。彼も窮地に立たされているというのに、こんな時でも決して思いやりを忘れない。


「リアさん。不安だろうが、今はこのまましばらく隠れていてくれ。水も出るし、台所の戸棚に三日分の食料もある。……ここはフランシス君がリアさんのために用意したんだよ。もしもの時、リアさんを逃すために。本当は使う状況にならないことが理想だったんだがね。彼は引き取り屋摘発にあたり、万が一を考えていて、私とアードルフ君にリアさんを託してくれたんだ。三人いれば誰かはリアさんを逃すことができると」

「どうしてっ、そんな事、私にはっ、ひと言も、言ってなかったのにっ」


 リアは声を上げて泣きじゃくる。

 フランの見えない優しさに守られるばかりで、自分は何もできなかった。

 無念や申し訳なさがごちゃ混ぜになり、外聞などどうでもよかった。自分の気持ちを発散させたい、ただその一心で慟哭する。

 ボーマンはそれ以上何も言わず、リアからそっと離れて扉の前でこちらへと一礼した。


「リアさん、私はもう行かなければならないが、信頼できる部下に着替えを持って来させよう。朝食も一緒に持ってきてもらうよ」


 国の一大事だ。ボーマンの時間は限られている。にもかかわらず、最後まで丁寧に扉を閉めていった。

 外部との接触を遮断する施錠の小さな音は、リアの啼泣ていきゅうに掻き消えた。

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