第123話 決意と恋情の狭間で
国が否応なしに変わり始めた、そんな落ち着かない日に。
一人でいたリアは対応したくない人と鉢合ってしまった。
「リア様、今後について熟考いただけましたでしょうか。ご決断は早い方がよろしいかと」
ボーマンの執務室からの帰りに出会ったのは偶然か、それとも必然か。
総政公は暖かな陽が差し込む廊下をこちらへと歩む。落ち着き払った一歩一歩をリアへ見せつけるように。
「階段開放も成し遂げ、この国は新しい道を進み始めている。あなた様もそろそろ本腰を入れて動き出さなければ、時代に取り残されてしまいますよ」
「私はっ……」
まだ何も決まっていない。だから、口から出た言葉はすぐに途切れてしまう。
総政公はラフィリアとの共存をもって国民の安寧を得ようとしている。
「もう一度言わせていただきますが、ラフィリア様と敵対しても多くの犠牲を払うだけです。それをあなたは良しとするのですか? 多くの命を死に追いやるのですか? どうかご決断を」
言い含めるように
リアは惨めに背中を見せて逃げ出した。その行為は愚かで、何の解決にもならないとわかっていながらも。
階段開放から五日が過ぎた。明日はとうとう引き取り屋の摘発日。ボーマンが手を尽くして集めた情報によってアルバートが関わっているのは間違いないと確証が取れたため、早期の摘発が可能になったのだ。
それは果たして上手くいくのか、それとも失敗に終わりボーマンの地位が落ちていくのか。それは今の時点では誰にもわからない。
リアは悪い妄想を振り払うためにひたすら走る。
無様に落ち込む自分を人に見られたくなくて、近道に使っている人気のない中庭へ駆け込んだ。
石畳が敷かれた歩道に沿うように植えられている背の低い生垣の切れ目から土を踏む。奥には綺麗に剪定された庭木が太陽を目指して伸びている。リアは生垣に隠れるようにしゃがみ込んだ。
吐き出す息と共に涙が
いっぱいいっぱいだった。
どんな未来を選んだらいいか、自分の本心さえもが霧に包まれたように霞んでしまった。
国主の娘であったけれど、奇跡の力を持たず無慈悲に地底に落とされて十年モグラとして生きた。酷い仕打ちに大教会を恨んだ事は確かにある。
地底で得た居場所は主様によって奪われた。
ラフィリアさえいなければ、奇跡の力なんてものがなければ、自分の人生は狂わされなかったのにと、ラフィリアを憎んだ。
自分にはラフィリアをこの世から消滅させるための力がある。それは五百年前から続く運命なのだと知り、遂行したいと思った。
ラフィリアが復活し、その圧倒的な力と凶悪性を目の当たりにしてからはより一層その気持ちが強い。
それらはどれも嘘偽りのない本心だ。
リアはしゃがんだまま膝に顔を押し付ける。堪えきれない嗚咽が漏れた。
総政公の言うように犠牲を少なく抑える方が人々を救えるのではないか、そう思う心もまた嘘ではない。
だから、迷いが生まれてしまった。
自分が向かおうとしている未来は果たして正しいのか。
それに加え、突然降って湧いた王位継承。果たして自分に務まるのか。
この国を治めると決めたのなら、圧倒的に不足している知識をつけるために早く動き出さなければならない。
懸念はそれだけではない。十年前、地底に落としたくせに今になって都合良く戻れという大教会及び国民を許し、愛することはできるのか。
八方塞がりで大きな不安が常に付きまとい、進む事なんてできない。
弱音は誰にもさらけ出すことができず、小さくなってただただ声を殺し泣き続ける。
こんな事をしていても無為に時間が過ぎていくだけでまったくの無駄だというのに、二本の足は立つことを拒否する。
泣いて、泣いて、涙で顔がぐしゃぐしゃになるほど経った頃、突然横の生け垣ががさりと音を立てた。誰かの気配に息を呑む。
「……リア?」
上から降ってきたのはフランの声だ。今一番会いたくない人との遭遇に、リアは涙を拭う前に素早く立ち上がって木々の間を走る。
土は靴音を吸収して湿った音を三回鳴らした後、不意にそれは途切れることとなった。
フランがリアのすぐ前に瞬間移動してきて、その胸に飛び込む形になってしまったのだ。
どすん、と体当たりのような勢いだったが、フランは揺らぐことなくリアを受け止めて逃走を封じるように抱きしめられた。
「つかまえた」
「離してっ!」
ばれているはずだが、泣いていたと悟られたくなくて、鼻声のまま言葉を叩きつけ暴れる。それでもフランはまったく動じず、腕の力も弱めない。
「泣いている子は放っておけないよ」
穏やかな口調は澄んだ清流のようで、リアの
相変わらず、涙は締め忘れた蛇口のように止まる気配すら見せない。人の衣服をハンカチ代わりに使うなんてどうかしていると頭の片隅に残った冷静な自分が批難するが、そんな些細なことを気にしている余裕はない。
「……私はっ、私はどうしたらいいのか、わからなくて」
呼吸もままならないほどに泣きじゃくる。数分の間、木漏れ日の下には悲痛な
「私のせいで、私が選んだ未来のせいで、大勢の犠牲を出すかもしれなくて、それが怖くてっ。私に何ができるのかなんて、」
口から出るのはまとまっていない支離滅裂な不安だった。形の無い真っ黒な未来が
それに抗う気力も力もなく、こうしてただ子供のように涙する事しかできない。
そんな弱く愚かなリアを馬鹿にせず、フランはそっと一度頭を撫でた。
「リアだけが悩むものじゃないよ。僕もラフィリア様を消滅させるために、ここまで来たから」
はっきりとした苦悩が浮かぶ紺色の瞳は、リアから離れることはない。
包み隠さず話して欲しい、そんなフランの想いが自然と伝わってくる。
ここで弱さを見せても彼は決して否定はせずに受け入れてくれる。そう確信した途端、木の葉の間から時折漏れる太陽の光がリアの心を暴露する。
「総政公はラフィリアとの共存を望んでいた。国のため、民のため、犠牲を少なくするために。真っ向からラフィリアに歯向かう今の自分が、本当に正しいのかわからなくなったの。このままだと、いずれ主様やラフィリアとぶつかることは避けられない。そうすれば無関係な人を巻き込んでしまうかもしれない」
「僕も……キミとまったく同じ。五百年前とは取り巻く状況も何もかもが違う今の時代で、本当にラフィリア様をこの世から消滅させるのが正しいのかわからなくなってしまったんだ。五百年前に正しかったことが今も正解だとは限らない。……本当は、総政公様の方が合理的で、この時代の正解だと思っている自分がいるんだ。五百年前に押し付けられた宿命なんて投げ出して楽になってしまいたい、そんな自分勝手な気持ちが強いんだよね。情けないだろ?」
抱きしめられている腕に力が増す。
フランは分かち合うようにそのままリアの首元に顔を埋めた。
何でも卒なくこなし、天才的な力を持っていて頭の良い彼が、今はこんなにも近くにいる。
追いつけないほどずっと先を歩いていたと思っていた彼が己の弱さを晒し、リアにもたれ掛かっている。それが嬉しくて、リアも彼に身を預けた。
ほんのりと伝わる体温がひとつに溶けて境界線を曖昧にする。
「私も同じ気持ちよ。私は私なのに、どうして五百年も前から人生を決められているんだろうって。……いっそのこと、無責任に二人でどこか遠くへ行っちゃう?」
「それもいいかもね」
近距離で笑い合う。不意にフランが額を軽くあてがった。黒と焦げ茶の前髪が混ざり合う。
「――でも、僕はもう後戻りできないし、するつもりもない。僕がラフィリア様を直接復活させたし、喧嘩をふっかけた。だから、僕は最後までこの道を貫き通すよ。これは自分で決めた事だから。僕の人生を狂わせたラフィリア様を許せない」
そっとリアを離す。その手は鳥が飛び立つ際に落とした羽根のように、宙をゆっくりと下りていく。
「私もあなたと、」
続きを遮るように大きな人差し指が唇をなぞり、フランの手を取ろうとしたリアの両手は空を切るに終わった。どうしてと見上げれば、名残惜しそうでいるものの確固たる意思がそこにはあった。
「リアは自分の事だけを考えて。きっとキミは、僕と共にラフィリア様を消滅させると言うでしょ? キミは真面目だからね。でもね、僕は未だに自分の心を決めきれないリアに義務感でついてきてもらうのは嫌かな。この道を選ぶということは総政公様の言う通り、たくさんの犠牲者を出すことになるかもしれない。そうなった時、多くの遺族から怨まれることになる。その先に待つのは指導者の処刑だ」
現実を述べるフランの双眸は力を宿している。死すらも恐れない強い意志が根を張っていた。
「もちろん、そうならないために最大の努力はするつもりだけど。でも、とんでもなく危険なのに変わりはない。だから、リアは僕と敵対しても構わないんだよ。それを抜きにしても今の状況は不安定だから、明日には思いもよらない事態になっているかもしれない。だから、慎重に」
リアとフランの間にできた隙間に、そよ風が吹き抜ける。木の葉が揺れ、静かなさざめきを耳に残す。
フランの決意は固く、初志を貫かんとする芯が通っていた。中途半端な気持ちのリアがついて行っても彼の邪魔になるとすら思えるほどの覚悟があった。
何も言えないリアから半歩距離を取り、フランはもう一度リアの瞳を真っ直ぐに見つめた。その表情はとても穏やかで、慈愛に満ちていた。
「それと、これは僕個人のお願いで、状況によっては難しいしリアに強要するものじゃないんだけど」
少しはにかむように笑う。
「アードルフと一緒に生きてあげてくれないかな」
「えっ」
思ってもみなかった突然の告白に数秒息が止まった。そんなリアの反応を楽しむようにして、フランは口許に微笑を浮かべてから言葉を重ねる。
「あいつ、リアの事を一人の女性として、とても大切に想っているんだ。だからリアさえ良ければ、あいつと一緒になってあげて欲しい」
冗談とか、からかっているとか、そんなことを言えるような雰囲気ではない。真情に満ちている。飾り気のない率直な振る舞いに適切な答えが浮かばず、頭が真っ白になってしまう。
木の葉の間から差す陽が刻一刻と形を変え、微風に髪がそよぐ以外は時が止まったかのように静寂を守っている。
総政公の話を思い出した。フランかドルフのどちらかと婚姻を結ぶというのは、二人も聞かされている。だから、フランはそんなことを言うのだろうか。
「そ、そんな、ドルフにそんな気は」
しどろもどろ、口から出たのは弱気な戸惑いだった。
確かに好かれているとは思うが、そういうものとは別ではないか。
困惑に固まるリアを前に、フランは後ろで一つに束ねている黒髪を意味もなく触りながら苦笑を漏らす。照れを誤魔化すための仕草に、彼も緊張しているのだと伝わるから、こちらもさらに力が入ってしまう。
「リアは鈍いんだから。少しは気づいてあげてよ。……あいつ、普段は強がっているけど、本当は素直で優しいんだ。まあ、単純でちょっと馬鹿だけど」
フランは視線をリアから外し、独白のように語る。
「本当は、アードルフまでこんな扱いを受けなくて良かったんだ。大教会から忌み嫌われていたのは僕。あいつは昔から僕の後ろをついてくるから必要以上に自分への風当たりを強くして。僕があいつを巻き込んでしまった。……もう僕のせいであいつの幸せを奪いたくない。だから、これからはリアがアードルフを導いてあげて欲しい。アードルフもリアの事を一番に考えてくれるはずだから」
言い終わるのと同時にひときわ激しい風が吹き、彼の艶やかな黒髪が背中で揺れた。
弟を想う兄の顔をして、フランはリアへ懇願する。本人に黙って打ち明けてしまった後ろめたさが瞼の縁に影を落とし、複雑な表情を作っていた。
リアからさらに離れ、振り返る。
「これは僕の勝手な押し付け。リアに全然別の良い人がいて、その人と歩む道を選んだとしても恨みはしないから。でも、もし可能性があるのなら、アードルフのことをちゃんと見てあげてほしい」
引き締まった声に強く念を押された。それからすぐにフランは頬を緩め、木漏れ日に負けないくらい柔らかな眼差しをくれる。
「僕はこれからボーマン様と話しがあるんだ。帰るのは遅くなるから、夕食はアードルフとすませてね。あいつにも言ってあるから」
フランは手を振ると、それ以降は振り向きもせず中庭を後にした。
一人取り残されたリアは高鳴る鼓動に手を添える。
まさか、ドルフが自分に好意を寄せていたなんて寝耳に水だ。
ドルフがそう思ってくれているのなら、真剣に今後を考えるべきかもしれない。
リアとしてもドルフは嫌いではない。一緒にいて居心地がいいのは確かだ。であれば、本人に確認して一緒になる方向でも良いのかもしれない。
心中の
もし、それを実現させてしまったら総政公側につくことになる。フランやボーマンとは
ドルフはどう考えているのだろう。彼は反ラフィリアを貫くか、リアと共に別の道を歩むのか。
新たに吹いた風に背中を押され、リアも止まっていた足をようやく動かし始めた。
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