第119話 総政公との対話1

 リアがボーマンの執務室を辞して廊下を歩き出すと、すぐ先の窓辺に人がいた。

 思ってもみなかった人物を前にして、足をぴたりと止めてしまう。

 背中で腕を組み、外を見ていたその人はこちらへ体ごと向き直った。


「リア様、少々私とお話しをする時間をいただけないでしょうか」


 大部分が白くなってしまった薄い茶色の髪に深い緑の瞳。総政公だ。

 リアは一歩後ずさりするが、総政公はゆったりと構えて強引に迫っては来ない。

 数秒その顔を見つめて内心を探ろうとするものの、彼の目はリアを蔑む事もなく実直だった。一体何の用事かと思うが、その落ち着きからして重要な話のように感じられたので、一つ小さく頷いた。


「……わかりました」


 返事を聞き、総政公は礼儀正しく一礼してリアを連れ立つ。

 二歩ほど後ろを歩き、リアは油断なくその背中を凝視する。何か少しでもおかしなことをしたらすぐに避けられるよう、体の柔軟さに意識を置いておく。


 治安部隊管轄の区画から出ることしばし。国の中枢を担う者の執務室が並ぶ区画へ入った。ここは研究棟区の中心で、周囲は建物で囲われている。関係者以外の立ち入りは禁じられているので、リアも入るのは初めてだ。

 階段を登り二階へ。廊下には床から天井までの大きな窓が連なり、圧迫感とは無縁だ。


 行ったことの無い場所というのは好奇心を呼び起こすもの。

 リアはいつの間にか前を歩く総政公の存在も忘れ、口をぽかんと開けて珍しさに辺りを見回していた。

 造り自体は他の場所と大差ない。しかし、ここには絵画や調度品が目一杯飾られていて、まるで貴族の屋敷だ。


 その中でも一際目を引いたのは、かなり古いものだと思われる高貴な人たちの肖像画。凛々しい青年の横には赤子を抱いた女性が椅子に腰かけている。

 その人が誰だか思い当たってしまい、肌が粟立あわだった。

 突然立ち止まり、寒い時期でもないのに黒い制服越しに両腕をさすり始めたリアを総政公は不審がることもなく、共に絵画を見上げた。


「リア様はこちらが気になりますか? さすがです、こちらは初代国主のご子息様、つまり王太子とその奥様、そしてご長男ですよ」


 リアの遠い先祖の姿だ。

 朧げな予感が、総政公の説明により確信に変わってしまった。この女性こそが五百年前のフランシスが育てた『リア』だと。


「おや、よく見れば王太子妃とリア様はどことなく似ていらっしゃる。この妃は孤児だったらしく、嫁いですぐは国民の反対など色々あったそうですが、後に歴代で一番国民に愛された王妃となったそうですよ」


 焦茶の長い髪を緩く束ね、ドレスも華美なものではない。優しく微笑む瞳は土色で、絵画の中からでも暖かな眼差しで見守られているように錯覚する。

 総政公は絵画から視線を外し、明鏡止水めいきょうしすいな笑みをリアへ寄こした。


「確かこのお方の名前も、リア様、ですね」


 どきりと心臓が強く鼓動を刻む。


「昔のことなのであまり資料が無く、私からお伝えできることはこれくらいです。さあ、こちらへお入りください。仕事部屋で申し訳ありませんが、おもてなしさせていただきます」


 総政公は本当にそれ以上知らないのだろうか。絵画のすぐ向かいの扉を開け、慣れた所作で胸に手をやり頭を下げた。

 国の重鎮に丁寧な対応をされては落ち着かない。リアは足早に扉を潜り抜けた。


 通された総政公の執務室は、ここで暮らせそうなほどに広かった。大きくて重厚な執務机が入り口から対角の壁際に鎮座し、誇らしげに存在感を放って出迎える。

 その手前には別室への扉があり、横の一面は本棚が壁を覆い尽くしている。

 ピリッとした仕事の空気が充満しているが、部屋全体が落ち着いたブラウンと白の色味でまとめられていて、過度の緊張が和らいでいく。すぐ下には坪庭が設けられ、採光に問題が無いのも心理的に大きい要素だ。


 入り口付近に立ち尽くすリアは総政公に誘われるまま、正面のテーブルに誘導された。

 華美な装飾はないが、腕の良い職人が造ったと一目でわかるほど完成された木製のテーブルだ。四本の足は曲線を描き、床へ到達するまでの視線を楽しませるかのように計算し尽くされている。

 それが年月を経て使い込まれ、職人の魂と使用主の様々な歴史が合わさって堂々とした風格を漂わせていた。


 テーブルに見入って足を止めるリアを呼ぶように総政公は椅子を引いてくれた。貴族の令嬢にするような扱いには慣れないが、おそるおそる腰を下ろすと座面のクッション性がほどよく、ふわっとお尻が包まれて幸せな気持ちになった。わっ、と感嘆が口から漏れてしまう。そんな小さな自分が恥ずかしい。

 総政公は羞恥におどおどするリアを見て頬を弛緩させた。何も言わないが、きっとこちらの思考などお見通しだ。


 彼はリアに気を使ったのか、お茶を淹れると言って奥の部屋へ消えて行った。

 一人取り残されたリアは所在なく部屋を眺める。


 ボーマンの執務室よりも隅々まで整頓され、彼の几帳面さが窺える。執務机もきっちり整えられていて、置かれている書類ですら乱れはない。机の後ろにある大きな本棚には難しそうな本がたくさん並んでいて、リアには解読すら困難そうだ。

 醸し出される仕事ができる雰囲気に、総政公の事をもっとしっかり知りたいという欲求が湧いてくる。


 思えば、彼とは腰を落ち着けて話したことは無い。フランと共にオルコット邸へ行った時に初めて対面し、ヘイズ家では嫌味を言われた。その後は降光祭の時に遠目から見ただけだ。今回はどんな嫌がらせがあるかと警戒は怠らないが、先程の様子だと今日の目的は違うように感じる。


 一人で悶々としていると、総政公がトレイにティーセットを乗せて戻った。

 特に気分を害されることはなく、手際よく二対のカップにお茶が注がれていく。


「どうぞおくつろぎください。……飲み物の中に毒などは入れていませんから」


 総政公はリアの向かいに座って笑いながらカップを小さく掲げ、自ら率先してお茶を飲んだ。


「最近はこの国もごたついていて、中々ひと息つく時間がなくって。今日、あなた様がお茶に応じてくれてよかったです」


 害意とは無縁のにこやかさだ。

 どこか優しげな、まろやかな声。話す速度や間の取り方がなんとなくフランと似ていて、それだけで警戒心が薄くなる自分を律する。顔がまったく似ていないのがせめてもの救いだった。

 胡乱げな目で総政公の次なる一手を待てば、彼は表情から笑みを消し、リアの思いを汲み取ったかのように口を開く。


「あなた様に対して行ったこれまでの非礼を謝りたくて、本日ここへお呼びいたしました」


 深い緑の瞳には悔恨の念すら見て取れる。

 あまりに突然の手のひら返しに、リアは応えるべき言葉を失った。


「あなた様にしてきた数々の無礼な行いを申し訳なく思っております。許していただきたいなど、厚かましいことは申しません。これからはあなた様に忠誠を誓います」


 椅子を立ち、リアの座る横までやって来て恭しく膝をつきかしずかれた。

 上から見下ろす総政公の背中は案外小さくて、彼も一人の人間なんだと意識してしまえば無下にもできなかった。リアは慌てて滅茶苦茶に手を振る。


「えっと、あの、顔を上げてください」


 これまでの怒りとか、警戒だとかはすべて飛んでしまったリアの顔は迫力のない間抜けなものだったのだろうか、総政公は口許を綻ばせて一礼し椅子へ戻っていった。


「あなたが思った以上に聡明で話ができる方でよかった。一度、こちらの話を聞いていただきたい」

「はい」


 総政公は深刻なほど丹誠たんせいだった。それならばこちらも真摯に向き合おうと、リアは居住まいを正す。


「私は国の安寧を第一に考えています。それは今も昔も違えることはないです。あなた様は少々勘違いをされているようなので、こちらの現状をすべてお話しします。もちろんこれは、あなた様に敬意を示してのことです」


 耄碌もうろくとは無縁の信念を持った強い眼差しだ。


「我がオルコット家は代々、国主一家と共にこの国のために尽力してきました。今代も、もちろんそうです。リア様のお父上と共に、国民が豊かで平和に暮らせるよう上手く立ち回っていました。それは、これまで目立った争いのない都市を見ればお分かりいただけるかと思います」


 一定の速度を崩すことなく私情を挟まずに告げられるので、リアも平常心を保っていられる。


「そうですね。確かにこの都市の治安はいいですし、国内外でも大きな諍いはありません。ですが、地底に住まうモグラや、奇跡の力が弱い貧民街の人々を救済しなかったですよね。それが本当の平和ですか?」


 こちらも言う事は言わせてもらう。あくまで冷静に。


「それを解決するには一筋縄ではいかないんです。人々に根付いた価値観を、ある時を機にして一気に覆すことは難しい。あなたもモグラだった頃、地上人、特に大教会の者を毛嫌いしていたのではないですか?」


 その言葉に思い当たることがあり、総政公から視線を断ってしまった。

 地底で初めてフランに話しかけられた時、制服を着ている彼が憎かった。何をされたわけでもないのに、差し出された手さえ取らなかった。

 唇を引き結んだリアを責めることも馬鹿にすることもなく、総政公は淡々としている。


「五百年経ち、それぞれの生活が根付いてしまっていて、そこから壁を取り除くのは中々厄介でしてね。まあ、私たちの先祖が早急に対応しなかった結果ですから、あなた様も同罪ですよ」

「でも……だからって、今のままは良くないです。少しずつでも良い方向に進まなければいけないと私は思います。奇跡の力になんか頼ってないで」


 ここで尻込みしてはいけないと、リアは明瞭に主張を口にした。総政公の見えない胸の内に届くように。

 しかし、彼の表情には良くも悪くも変化はない。一本の筋が通った堅固な眼力でリアを牽制する。


「奇跡の力が強い者こそ優れている。それを幼少の頃から疑わなかったと認めます。今でもその常識を捨てきれないのも事実。ですが、私情を挟んでいては大切なことを見失う。このままモグラや貧民を抑圧しているのでは、近いうちに暴動が起こる可能性が高くなってきてしまいました。だから私は、ラフィリア様が降臨したことをきっかけにしてこの国の平穏のため、奇跡の力の優劣による差別を段階的に無くす方策に舵を切りました。それはあなた様もわかっていただいておりますよね?」

「はい。あなたが兄とクラリスの婚姻を持ち上げ始めた時から感じていました。それに、もうすぐ階段開放もありますし。国を円滑に回すのは綺麗な事ばかりではないと私でもわかります。ですが、ラフィリアに頭を下げて生きるあなたのやり方に私は賛成できません。ラフィリアは温和な女神ではないです。あなたもラフィリアの数々の非道な行いを見てきましたよね」


 ラフィリアは平気で人を殺す。そんな危険な存在を許し、共存するべきではない。それがリアの考えだ。譲れない。だからはっきりと意見する。たとえ生意気だと言われても、ここで曖昧な態度は取れない。

 怒り出すかと思われた総政公は予想に反し、駄々をこねる幼子でも見るような優し気ながらも若干の困惑に眉を下げる。


「フランシスもリア様と同じ事を言っていましたよ。もちろん、ラフィリア様によって人が殺された事実は受け止めております。ですが、神と敵対してどれだけの犠牲をもって勝てるとお考えですか? そもそも犠牲を払って勝てる相手ですか? ラフィリア様は人間では到底敵わないほどの力を持っています。あなたは自分の理想のために国民の命を危険に晒すのですか? 上手くやらないと国際問題にも発展してしまう危険性は多いにありますが、それはどうお考えですか?」


 これにはぐうの音も出ない。

 そんなことは、これまで少しも考えていなかったから。


 静かにラフィリアだけを消滅させられればいいが、実際はそうならないだろう。ラフィリアは抗い、そのたびに血が流れる。それが長引けば他国の干渉も免れない。

 どうしてそんな簡単な事も指摘されるまで思考の片隅にすらなかったのだろうと、自分の視野の狭さを悔やんで唇を強く噛む。


「あなた様の理想は理解しています。神の干渉のまったくない世界。ですが、現に女神は降臨し、奇跡の力は存在してしまっている。これは紛れもない事実。それを踏まえた上で、国の平和を考えなければなりません。国を円滑に回すのは難しいのですよ」


 長年、政務の中心にいた人の言説げんせつには説得力がある。もはやリアの出る幕などどこにもない。


「ボーマン様は甘すぎるから現実を伝えてはいないのでしょうが、上に立つ者は皆、私情を捨てています。それが責任と義務ですから。自分の思い通りにいかないことも多い。国のため、民のため、それが一番です。かつて、あなた様もそう教育を受けませんでした?」


 そこまで言うと総政公は一度お茶を啜った。

 彼の言論は正しくて、口を挟むなんてとてもできない。

 無言が気まずいのでリアもカップを手に取った。

 ボーマンの執務室で喉は充分潤したはずなのに渇きを感じ、半分ほど一気にかさを減らす。


 総政公がカップをソーサーに置く音がやたら大きく聞こえる。次はどんな辛辣な現実を示唆されるのだろうとおののく。彼は椅子の背もたれに身を預けて長く息を吐いてから、俯くリアに視線を戻した。


「――色々とラフィリア様の肩を持つようなことを言いましたが、主様ことユージーン様のやり方には賛成していないのが本音なんです」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る